筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

    飯塚市立幸袋小学校・中小一貫校講堂撤去に伴う調査 その2



  昭和9年(1934)、 この頃には幸袋小学校も 現在の学校は 運動場・校舎とほぼ同じ規模 りとなり 昭和10年(1935)には奉安殿・ 昭和11年(1936)には、伊藤伝右衛門氏が 5万円(現在金額は約2億5000万円ほど) 講堂の完成 となります。 昭和16年(1941)4月、幸袋国民学校となり 日本の国自体が 戦争の時代に入っていきます。


昭和16年(1941)12月8日太平洋戦争 が始まり 昭和20年(1945)7月 講堂を空襲対策でコールタールで明装をした時代がありましたが 昭和20年(1945)太平洋戦争が終り 昭和22年(1947)幸袋小学校の良き協力者であった 伊藤伝右衛門氏が87歳で亡くなります。


昭和25年(1950) の朝鮮戦争では 国内の景気もさらに 筑豊の石炭は大きく発展し幸袋小学校の生徒数も多くなりますが 昭和38年(1963)以降 筑豊の炭鉱の閉山の時代 と 穂波郡幸袋町より 飯塚市に合併となります。


この幸袋小学校も 創立約110数年になりますが 平成26年(2015)中小一貫校への時代となりました。 そのため幸袋小学校の生徒・同窓生・飯塚市民より 愛され・親しまれた講堂も撤去されます。 この講堂の調査内容の一部を記します。


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 次回は、 飯塚市立幸袋小学校・中小一貫校講堂撤去に伴う調査 その3