筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

      筑豊近代化遺産  三菱飯塚炭鉱巻上機台座  (40)


三菱飯塚炭鉱巻上揚機台座は、飯塚市平恒460番地8 にあります。  この場所は 旧JR上山田線の平恒駅より山田方向へ約270mの左側(鉄道は昭和63年(1988)に廃止され現在は道路敷) にあります 赤煉瓦造りの高さ約12m大きな巻上機台座(三菱飯塚炭鉱二坑本卸)で70m離れて(連卸)2基の巻上機台座 が残っています。


通常の炭鉱の斜坑では、二本の坑道が掘られます。 本卸は、入気・ 石炭搬出 を 連卸は、排気・ 人道に使用 されます。 大正に造られた巻上機台座は上部の動力部が残っていませんが蒸気の力で稼働していたといわれています。 台座は戦前は煉瓦造り 戦後はコンクリート製が多く 造られています。 この 巻上機台座は、 筑豊最大級 で力強く 稼働していたといわれています。


この炭鉱は、大正4年(1915)に中島徳松 の大徳炭鉱が経営着手 ・大正11年(1922)に中島炭鉱を三菱鉱業に委託  昭和2年(1927) 出炭量71万4000tの最高記録達成  ・昭和16年~19年(1941-1944)炭鉱事故で3回の事故32名死者  ・昭和36年(1961)飯塚炭鉱として閉山 となり 46年間の石炭採掘 がおこなわれました。


巻上機台座付近は、以前のJR上山田線の軌道敷きであったため 旧平恒駅までの間にも 石炭積み込み場跡 や コンクリートの構造物 が残っています。 さらに巻上機の周辺の石積みも ボタを使った石垣 が利用されています。 ボタはあまり強い石ではないと思っていましたが よく残つている事 や いろいろの縞模様(ボタにより変化にとんだ縞模様で考え方を変えると芸術的?) と 今になれば筑豊の生活の知恵 をかんじます。 

 
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       三菱飯塚炭鉱巻上機遠景                  稼動時の巻上機

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        巻上機台座説明版                      巻上機側面
   
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          巻上機の前面                   巻上機裏面とボタ石垣

   
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            巻上機                     現道路(旧JR上山田線) 


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     巻上機の上部アーチ                      道路の横にボタの石垣


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         巻上機説明版                      巻上機付近地図

                      位 置 情 報

三菱飯塚炭鉱巻上機  北緯33度36分54秒  東経130度41分07秒 標高 30m




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