『史記』の世界 - 湯 | 鸞鳳の道標

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 殷の創建者は(とう)です。これは称号のひとつです。
 日本では称号としては湯王、名は天乙として知られていますが、中国では現在では商湯という称号で、姓は子、名は履で呼ばれるのが一般的です。
 称号については他に成湯、武湯、成唐。名については成、大乙、太乙などがあります。これらは甲骨文に刻まれているもので、唐は発音から宛てられたものであるとか、成は丁戊の合字であるとか、様々な解釈がありますが、甲骨文研究は二百年足らずのまだまだ浅い、これから深まっていく未来の学問であるため、新たな解釈や発見がこれから見つかっていくでしょう。
 「史記の世界」と題して『史記』の内容、解釈などをこれまでも行っていきましたが、ここから先は、『史記』から離れた話が多くなります。
 三皇五帝は伝承があまりにも多く、実在性、信憑性に疑いのあるものも多く、その中から司馬遷が独自に「これは信じてもいいだろう」という内容を厳選したものと見做して、司馬遷に敬意を払う意味でも、出来るだけ他の情報を省いていきましたが、これからはむしろ、『史記』に書かれていない内容も多く取り上げていきます。
 『史記』というより、改めて、古代中国史の世界へようこそ。
 
 「殷」という王朝名は、周が命名したものです。
 この王朝はもともと、「商」と呼ばれていたことは甲骨文からもはっきりしています。
 殷という字について、『説文解字』によれば「从㐆从殳」とあります。「㐆」と「殳」から成っているということです。旁の「㐆」について同じく『説文解字』によれば「歸也。从反身。凡㐆之屬皆从㐆」とあります。「帰するところ。身を反転させたもので、身に属するもの」ということで、少々分かりづらいのですが、要は「母体」です。「殳」は「ほこ」のことです。この字は、母体むしろ妊婦に対して、ほこを差し向けている字ということになります。なんと残虐な、と憂う必要はありません。現在でも、神社によっては神通力を賜った棒を妊婦の腹の上から軽く叩いたり、擦ったりして、安産祈願を行うところもあります。これもその一環と見做してよいでしょう。「神よ、この子が無事に生まれ、健やかに育ちますように」と、あるいは「武器を手にし、国の守り手となるように」と勇者となるよう願った仕草を、周の人たちが見ていたのでしょう。
 ただそれは、周人には理解しがたいものだったのでしょう。
 雷雨や嵐に怖れを抱きながら、いずこかの土地に定住し、牧畜や農業などに勤しむのが農耕民族の特徴です。これは商でも周でも同様です。ただし商の人たちは、天災など何か異常が起こったときはすぐに占いをして鬼神(先祖)に伺いを立てる、宗教人としての一面が強かったのです。
 たとえば、洪水で川が氾濫を起こし、作物が流されてしまった後にどう対処すべきかということに対して、商の人たちは鬼神にお伺いを立て、「生贄に牛を五百頭捧げなさい」と出たら、それを愚直に実行する人たちです。堤が低かったのなら土嚢を積み上げ、あるいは川から離れた場所に新たに田畑を作ったり、米を作る人たちで共同体を組んで甚大な被害を受けた人を救う互助会を作るような現実的な対処よりも、占いを優先する人たちでなのです。「牛を五百頭捧げなさい」と言われたところで、その牛たちを使って農耕をしたり、極端な話として食肉にすれば多くの人が恩恵を受けるのに、ただ殺して祈るだけでは何にもならないのに、鬼神を恐れることを優先した人なのでしょう。
 周は元は遊牧民族だったという説もあります。遊牧民族であれば土地の移動や、作物の変更などに対する抵抗は少ないでしょう。侮蔑、そこまで行かなくとも理解しがたいことをしている連中であるというのが周の人たちの、商、いや殷の人たちに対する感想です。
 
 湯の先祖は契(せつ)で、その母は簡狄といい、有娀氏の女です。帝嚳の次妃で、沐浴に出かけた時に玄鳥、すなわち燕が産み落としていった卵を呑み込んだところ、それで孕んで契が生まれたといいます。契は禹に仕えて治水で功績があり、舜に司徒に任じられて商の地に封じられ、子姓を与えられ、虞と唐の二国の開祖となります。
 契の後は、昭明、相土、昌若、曹圉、冥、振、微、報丁、報乙、報丙、主壬、主癸、主癸と続き、主癸の子が天乙、すなわち湯です。この間に八度遷都し、最後には亳に住み着いています。亳は現在の河南省洛陽市とする説や河南省鄭州市とする説など様々あって、定かではありません。
 湯は葛伯が先祖を祀らないことを理由にこれを討伐し、こう言っています。「言葉にある。人は水を視て形を見、民を視て治まっていないのを知る、と」。伊尹が「明察です。言葉を良く聞き、道を進む。国に君があって民を子とすれば、善い者はみな王の官職となる。勉めよう、勉めるよう」。これに対して湯が「汝が命を敬わなければ、予は大罰を与えて殛してくれよう。容赦はしないぞ」。そう言って湯征を作ったとあります。
 
 湯を支えた主たる名臣は、右相の伊尹(いいん)と左相の仲虺(ちゅう・き)です。『史記』では伊尹のみで仲虺のことは書かれていません。
 伊尹の名は阿衡(あこう)、あるいは摯(し)。阿衡といえば日本の平安時代に起きた「阿衡の紛議」がありますが、ここでは採り上げません。伊尹は有莘氏の領内で七十歳過ぎまで農事をしていたところ、たまたま有莘の娘が履(後の商湯)に嫁ぐ際、俎板と鼎を担いで料理人として付き従い、滋味を以って履に政治に関する進言をしてその有能さを認められて仕えることになります。有侁氏の娘が桑の中から見つけて育てたという伝説もあり、伊水の洪水神という伝説もあります。
 彼は後に「伊・霍」と並び称されることがありますが、それは次の事柄によるものです。伊尹は後に商の第四代・太甲が横暴であったので桐という地にいったん追放し、三年経って太甲が改心したのを見計らうと再び呼び戻して帝位に就けています。霍というのは西漢(前漢)の霍光(かく・こう。あざなは于孟)は、昭帝が崩御した後に後を継いだ昌邑王が暴虐であるとしてこれを廃し、代わりに武帝の孫に当たる病已(へいい。のちに詢と改名。あざなは次卿)を即位させます。これが宣帝です。伊尹も霍光も、臣下でありながら最高権力者をすげ替えた人物で、後世において皇帝のすげ替えを行うとする人物が現れると「あなたは伊・霍ほどの功績があるのか」を挙げてこれをたしなめるような場面が幾度か登場します。ただし、かつては両者ともに忠臣であるという扱いでしたが、現在では伊尹による廃替は簒奪で、返上したのではなく討伐されて奪い返されたのではないかと疑問視する考えも現れています。霍光に関しては忠臣とは言い切れず、彼によって廃された皇族や臣下たちはかつては反逆者や野心家という扱いをされていましたが、野心家であったのはむしろ霍光であったとする説も有力となっているようです。
 仲虺についての伝承は少ないのですが、『春秋左氏伝』「襄公三十年」の項において、「乱れた者は之を取り、滅亡する者は之を侮る。推と亡とは元から存し、国の利である」という言葉を仲虺のものとして挙げています。また誥を作ったともされますが、散佚してその内容は不明です。
 伊尹は国政を任された後、一旦は湯の元を去って夏へ行き、夏を憎んで亳へ戻ってきたとあります。この間に何があったのか『史記』は語っていません。
 『史記』では次いで、網を張る男の話になっています。これは『十八史略』でも採り上げられている話です。
 
 湯が出かけると、野で網を四方に張り巡らせている者が祈りを捧げていた。
「天下四方にあるもの、自らこの網に入れ」
 湯は言った。
「ああ、それはわがままだ!」
 そこで三方を取り除き、こう祈った。
「左へ行きたいものは左へ、右へ行きたいものは右へ。そうでないものだけ、この網へ入れ」
 これを聞いた諸侯は言った。
「湯の徳は至れり。禽獣にまで及ぶ」
 
 さて、夏の桀は暴政で淫乱、荒虐であり、湯は諸侯と組んで昆吾氏の叛乱を鎮めた後、夏を討つことを決意します。
 この時に読みあげたのが『湯誓』と呼ばれるものです。
 
 来たれ、汝ら諸人よ。汝ら、朕の言葉を聞け。わたしが起こそうとしている一挙は叛乱ではない。夏に多くの罪があるからだ。予は汝らの言葉を聞いたが、夏氏に罪があり、予は上帝を畏れ、あえて正すのである。夏に罪は多い。天命によりこれを誅罰する。
 汝らは言う。「我らの君主はわたしたちを憐れむことなく、わたしたちの農事を捨ておいて、政治をしている」、と。汝らは言う。「罪があるとはいえ、どうすればいいのか」
 夏王はみなの力を押さえつけ、夏国を奪いつくしている。みな、怠惰となり、不和になり、こう言っている。
「太陽はいつ亡ぶのか。私は、みなとともに亡んでやろう」
 夏の徳はこのようなものだ。今こそ朕は必ず赴く。汝は予を助けて天の罰を起こせ。予はそれを汝に与えよう。汝は疑う必要はない、朕は嘘は言わない。誓言に従わなければ、汝を戮殺してやろう。容赦はしないぞ。
 
 あえて、直訳に近い形にしてみました。『書経』(『尚書』)にある『湯誓』は、『史記』のものとは少々異なっています。
 また、「太陽はいつ亡ぶのか。私は、みなとともに亡んでやろう(原文:是日何時喪予與女皆亡。『書経』では時日曷喪予及汝皆亡)」も、予と汝がそれぞれ誰のことを指しているのかで訳し方が異なります。夏桀の世の中を太陽になぞらえ、それが滅ぶときがあるのかと嘆くまでは分かるのですが、これを詠んだ人が「夏が亡ぶなら、一緒に亡んでしまう」と嘆いているのか、「夏が亡ぶのなら、一緒に亡んでやろう」と投げやりになっているのか、「夏が亡んでくれたら、一緒に亡んでやってもいい」と終末思想になっているのか、断定できない部分です。
 ともあれ、諸侯を率いた湯は夏を攻め、桀は鳴条へ敗走。そして夏王朝を滅亡させた湯は誥を作って国君たることを民に宣言し、正朔を改め、服の色を変えて白を最高のものとし、ここに商王朝を建国させるのです。
 
 最後にもうひとつ、湯にまつわる話を紹介しておきます。これは『十八史略』に採用され、『後漢書』「巻四十一・第五鍾離宋寒列傳」と『資治通鑑』「巻四十四・漢紀三十六」にも出てくる言葉ですが、由緒ははっきりしません。
 「六事自責」とされるものです。後者の書物によれば、永平三年の夏に旱が起き、そこで鍾離意(しょうり・い。あざなは子阿)が明帝に対し、
「昔、湯王の時代に旱が起こり、六事を自責しました。『政不節邪? 使民疾邪? 宮室榮邪? 女謁盛邪? 苞苴行邪? 讒夫昌邪?(政治に節度はあるか? 民を酷使していないか? 宮廷や王室は立派すぎないか? 後宮の女性たちの言いなりになっていないか? 賄賂は横行していないか? 讒言が盛んになっていないか?)』と述べました」
 と、たしなめたものです。明帝は「咎は私一人だけにある」として公卿百僚に謝罪する詔を出したところ、大雨が降ったとあります。
 この言葉を本当に湯が言ったかどうかは分かりませんが、後世、政治に携わる者が自問、自責する言葉として残ることになりました。