史記の未来像 | 鸞鳳の道標

鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。

 『史記』は司馬遷が著してから約二千年、まったく変化がないかといえば、そうではありません。
 内容そのものは変わらないのですが、内容についての注釈が行われています。
 当然の話ですが、漢の時代からは唐の時代でも七百年、清の時代には千七百年以上も経っています。現在では二千年を超えています。すでに死語となった言葉や表現もあれば、すでに失われた風習もあり、理解できない部分が当然出てくるので、その解説が必要となるのです。
 そして中国人たちは、どんな些細な事柄についても記述を残そうとする民族であると同時に、どんな細かいことでも解析しようとする民族でもあります。
 ここが日本人と違うところなのですが、物事を大まかに捉えることよりも、物事をいかに細かく分析するかにに専念するのです。
 たとえば『論語』を読んだとして、日本人の多くはそこに書かれていることを大まかに捉え、孔子が言いたいであろうこと、考えているであろうことを感じ、「孔子もこう言っている」というように後の教訓に用いるような習得をしていきます。参考になる部分、感動した部分など、一部から全体を捉えると言ってもいいでしょう。
 ところが中国の注釈者たちの考えは違います。読者にとって必要かどうかではなく、筆者が書いたことの本質を、細部にわたって理解しようとするのです。ひとつの章の、ひとつの文の、ひとつの文字に至るまで「なぜこのような表現をしたのか」「ここでこの言葉(文字)を使ったのはなぜか」ということを詮索していくのです。
 
 「春秋の筆法」という言葉があります。
 孔子が書いたとされる(実はまだ確定されてはいないのですが)魯国の歴史記述書の『春秋』には、至るところで謎に満ちた表現が現れます。
 有名なのが「僖公二十八年」にある「天王狩于河陽(天王、河陽に狩りす)」です。
 天王とは周王(当時は襄王)のことを指します。狩というのはただの狩猟でありません。「巡狩」と言って、狩りをすると称して練兵をする傍ら、領内を巡察することです。だから、普通に読めば「周の襄王が、河楊の地へ巡狩をした」となるところなのですが、注釈者たちによると、そうではないと言います。
 歴史的事実としては、晋の文公が襄王を河陽の地へ呼び出し、諸侯を集め、示威行為として利用したのです。ではなぜそう書かなかったかというと、最も偉大な天子たる王を部下が呼び出すというのは不遜の行為であるが、それを隠匿することは史家(歴史を記述する専門家)としては許されない。そこで、あえて主語を天王とし、巡狩という天子にしか用いられない用語を使うことで記述の隠匿を回避しつつ、部下が王を呼び出すという無礼な行為をした文公を間接的に批難(あるいは正当化)したのだ、となるのです。
 『春秋』では他にも、たとえばある人物について、その地位だけで表現される場合もあれば、名前で表現される場合もあり、あるいは単に「晋の人」というようにぼかした表現がされる場合があります。それらを、「どうしてこの時にはこの表現を用いたのか」と注釈を付ける人たちが多数現れたのです。
 そして、『春秋』に用いられる表現は、正しいものを評価し、誤ったものを批判し、しかし歴史を曲げない記述方法であるとして、「春秋の筆法」と呼ばれるようになったのです。
 
 『春秋公羊伝』。著者は公羊子(公羊高(くよう・こう)とされるが確証なし)
 『春秋穀梁伝』。著者は穀梁子(穀梁子(穀梁赤(こくりょう・せき)とされるが、これも確証なし)
 『春秋左氏伝』。著者は左氏(左丘明(さ・きゅうめい)とされるが明らかに間違い)
 
 が、「春秋三伝」として名を残しています。特に前者二書は「なぜここは『子』と表現したのか」「『春』とは何か」「『王』とは誰か」と言ったのような、末端の一文字にまでこだわる内容になっています。『春秋左氏伝』はこの傾向はやや薄いのですが、それでも「なぜ『人』という表現をしたのか」「『薨』とは何か」と言った、その文字が使われる理由についての解説が多く見受けられます。
 
 これと同様の現象は、『史記』にも起こります。
 後漢の延篤(えん・とく)による『史記音義』を皮切りに、明代に至るまで無数と言ってよいほどの注釈書が登場します。
 その中でも特に、
 
 『史記集解(しっかい)』。著者は劉宋(南朝宋)の裴駰(はい・いん。あざなは龍駒)
 『史記索隠』。著者は唐の司馬貞(しば・てい。あざなは子正)
 『史記正義』。著者は唐の張守節(ちょう・しゅせつ)
 
 は、「史記三家注」と呼ばれます。
 余談ですが、裴駰は『三国志』に注を入れた裴松之(はい・しょうし)の息子です。
 当然、年代が過ぎればそれだけ多くの注釈が付きまとい、本文がわずか一行なのに注釈が複数行に渡るということも珍しいことではなくなってしまうのです。このような動きに反発して、本文は本文として、注釈は別にまとめて読むべきだとしたのが明の凌稚隆(りょう・ちりゅう。あざなは以棟、号は磊泉)の『史記評林』です。
 しかし、それでも不満を抱いたのが白文派の人たちです。こちらは誰か一人が旗を振るったというより、白文運動が自然に巻き起こったと見るべきでしょう。白文とはその名の通り、まっさらな文章のことで、司馬遷の書いた原文たる『史記』をそのまま読むべきではないかというものです。彼らによれば、注釈は理解を深めるどころかむしろ本質を妨げ、歪める余分な産物だということになるのです。しかし、二千年も前の出来事を、まったく解説無しに読み進めるのはやはり困難です。しかしこの点については、現代の書物やネットで公開されている文章ではかなり補助が進んでおり、外国人(もちろん日本人も中国から見れば外国人です)でも読みやすい仕組みになっています。たとえば、難しい用語や当時の風習については「注一」、「注二」などが割り振られ、最後にまとめて、それぞれの番号についての解説が載せられています。おかげで本文を読み勧める妨げから回避されています。また、本来は中国の文章には存在しなかった句読点を入れ、文章の途中での区切りにはコロンやセミコロンも付けています。これは教科書や、駐日大使館のホームページなどのような公式な場面でも採用されています。また人名や地名には傍線を施したり、太字で表記するなど、特別な言葉であることが一目瞭然となっています。
 これらはとても喜ばしい傾向で、特に外国人の参入によって解釈がますます進むことも期待できます。『論語』、『孫子』、『老子』などはヨーロッパでも多く翻訳され、著名人が愛読していることもあります。
 また、現代中国では少し前まで、古典にあまり親しまれていなかった傾向もあります。これは、現代では簡体字が用いられているので繁体字の文章を読むには教養が必要となることと、最初にも述べたように死語や古い表現、古い風習などは解説がなければ理解しがたいからです。日本人でも『万葉集』や『日本書紀』、『源氏物語』や『太平記』などは現在と文体も言葉も違うのでそのままでは読むことができない、表現や風習を理解しきれないのと同様です。
 しかしこれらについても対応は進んでいて、簡体字に訳してネット上で公開しているサイトもあります。
 また、国学ブームによって古典を学ぶ人も増え、国学課を創設する学校も増え、小学生であっても『論語』や『礼記』の一文を引用した会話が聞かれることもあるようです。なかでも『孟子』は人気が高いようです。これらは礼節や孝道などを教えるのに使われることが多いようで、『史記』を読むとなると素養を積む必要があり、ブームにはあまり乗り切れていないようですが、期待は持てます。
 どこの国の人であろうと、『史記』を好むのなら手を取り合って理解を深め、指標とし、より良い未来を築くことが出来れば良いかと思います。