愛情は理性を超えて | 鸞鳳の道標

鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。

 かつては、猫が嫌いでした。
 鋭い目つき。他者を拒絶するかのような唸り声に、ヒステリックにすら聞こえる鳴き声。爪を立てて研ぐ仕草。近づこうとすると却って身を翻す警戒心の高さと、それとは裏腹に興味ありげにこちらを伺う視線。走るのは怖気。
 それに比べて、犬のなんと賢いこと。
 敵対する者には吠え掛かるが、それは主人への忠誠心によるもの。顔見知りになれば、むしろ尻尾を振って近づいてくる愛嬌の良さ。番犬という言葉はあっても、番猫という言葉はない。もし家に泥棒が入ってきたら、番犬は唸り、吠え掛かるかも知れないが、番猫など置いたところで、警戒して距離を置いても見ているだけに過ぎないかも。犬は芸達者で、「お手、待て、かかれ」など人の言うことに素直に聞くが、猫は何もしない。むしろ、しない。猫はなんと高慢なことか。
 愛犬家が猫を嫌う理由とは、こんなところでしょう。
 それがどこで一変したのか、今は逆に、犬を嫌い、猫を好む。
 猫の鋭い目つきや、唸り声、警戒心は相手を観察するため。鳴き声なんて、人間が勝手に考えているだけ。犬は芸達者というが主人に媚びているだけかも知れない。猫は高慢というより高尚で、「人間に命令される謂われなど、ないぞ。そんな簡単に媚びると思うな」と、目の前にいる人間がどのような者なのかを判定しているだけのかも知れない。随分と、猫にとって都合のよい解釈ですが、好き嫌いの理由など、ほとんど一方的な思い込みなのかも知れません。
 好きになれば、理由をあれこれ考えついたとしても「好きだから、仕方ないじゃない」ということになるし、嫌いになれば、これまた理由をいろいろと思いついたとしても「どうしても嫌い」の一言を発せられたら、他者はどうにも対処しきれなくなります。
 「だめんずうぉーかー」という言葉は流行ったことがあります。これは漫画『だめんずうぉーかー』(倉田真由美。扶桑社)からの言葉で、人間的に社会的に観て価値の低い、駄目な男性ばかりに何故か惹かれ、尽くしてしまうような女性のこと。「だめんず(駄目なメンズ)」にどんなにひどい目に遭わされても、むしろ嬉々として愛してしまう女性が、意外にも世の中に多いことが判明したとも言えます。
 しかし、これは心理学からすれば、さほど異常な現象ではないようです。普通の女性からは相手にされないような駄目な男性だからこそ、「私がいないとダメなんだ」と同情し、あるいは「私以外の誰も、彼のことを本当に理解できる人はいないんだ」と自分こそが唯一の理解者であると錯覚し、博愛精神を呼び起こしてしまう。母性愛と情愛の混乱とも言えます。生物的な本能でもあり、だからこそ根深く、理性を超えたものになってしまうのでしょう。他人があれこれと口出ししても、その進言者の思うように物事が運ぶとは限らないものです。
 だめんずとはまた違う、理性を超えた愛情を思うとき、増田宗太郎と豫譲の話を思い出します。
 そして、世の中には理性で測れない、損得計算から縁の遠い感覚が存在することも知らされます。

 増田宗太郎は江戸幕府末期、いわゆる幕末の人。父が福澤百助の妻のいとこ。百助は福澤諭吉の父なので、系図では再従兄弟(またいとこ)であり、家もすぐ近く。慶應義塾で学んだあと、故郷の中津へ戻って教鞭を取る一方、自由民権や主権在民を掲げた「田舎新聞」が刊行された際にはその編集長となっています。西郷吉之介(隆盛という名は誤りという説がある)が西南戦争を起こしたとき、中津隊を結成してこれに参戦。奮戦虚しく、隊を解散させることにしたとき、隊長はどうするのかと隊員から聞かれて答えとされるのが、
「吾、此処ここに来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」
 三日の部分が十日となっている伝承もありますが、これほど愛情が理性を無視することを的確に表現したものも、なかなかないでしょう。理性でいえば、もはや敗色は濃厚で、義理も十分に果たしたのだからここで離脱しても他者から文句を言われる筋合いなどないと胸を張っても構わないところ、ここでもう一緒に死ぬという。「親愛日に加はり」も大事ですが「善も悪も」すでに関係ないと割り切っているところに、澄み切った心が伺いしれます。

 豫譲は中国の春秋時代末期の人。大国・晋は晩期になると六卿と呼ばれる六つの家の大臣が実質的に政権を掌握している状態でした。豫譲はそのひとつである范氏(士氏)に当初は仕えるも厚遇されずにやがて去り、次いで中行氏に仕えるも厚遇されずに去り、最後に智氏の元へ行くと当主の智伯(智瑶)から国士として優遇されます。しかしその智伯が趙襄子(趙無恤)に敗れて死ぬと、山へ逃げ、智伯の頭蓋骨が酒盃にされたと知ると、復讐を誓います。
「ああ、士は己を知る者のために死に、女を己を悦ぶ者のために容貌を作る。今、智伯は私を知る。私は必ずや死をもって復讐を遂げ、魂に恥じないようにしよう」
 後に自らの忠誠心を訴えるときに使われる言葉として使われ、「知己」という言葉の元となります。
 名前を変え、左官に化けて趙の都市・晋陽に潜り込むと、厠の掃除人として仕えるふりをしながらその隙を伺います。しかし挙動不審のため逮捕されるも、その忠誠心を知った趙襄子に釈放されます。しかし豫譲は今度は顔の皮を削ぎ、全身に漆を塗って肌をぼろぼろにし、炭を呑んで喉を潰し、乞食に身をやつすのです。たまたま、街中ですれ違った妻も彼に気付かなかったのですが、慧眼の友に見つかって諭されます。
「君ほどの才能であれば趙襄子に召し抱えられるだろう。そうすれば目的も容易く達成できるではないか。何故、遠回りなことをする」
「それでは初めから二心を抱いて仕えることになる。そんなことは出来ない。確かに私のやり方では目的を果たすことは難しい。しかし、私の自分自身の生き方を、後世への戒めとするのだ」
 豫譲は死人のふりをして、趙襄子が通りかかる橋の下に潜むも、趙襄子の馬が突然怯えたため、それを怪しんだ趙襄子によって捕らわれの身となります。
「お前は今までに范氏、中行氏に仕えていたな。その両氏とも智伯に滅ぼされたのにその讎を討たなかった。ところが智伯が死ぬと、単独であっても智伯の讎を討とうとするのか」
「私は范氏、中行氏に仕えていましたが、その他大勢という扱いでした。だから、それなりに報いました。しかし智伯は私を国士として優遇してくれたので、国士として報いるまでです」
「ああ、豫君。あなたが智伯のためにしたことで、すでに名を成し遂げた。私はこれまであなたを十分に赦してきた。再び(赦す)というわけにはいかない」
「『明主は人の美を隠すことなく、忠臣は名の義に死ぬことを有す』という。あなたがかつて私を寛大に赦したことで、天下ではあなたの聖賢を褒め称えています。今日のことで、私は誅に伏しましょう。請い願うことが出来るのならば、あなたの衣服を戴いてこれを撃ち、讎を報じたいのです。そうなれば、死んでも恨みません。敢えて望むところではありませんが、心からの言葉です」
 趙襄子は大義であるとし、使いの者に豫譲へ服を渡させると、豫譲は剣を抜いて三度跳躍しながら、これを撃つ。
「智伯に報いることができた」
 そういって、剣で自殺します。その死んだ日、趙の国の志士たちはこれを聞いて、みな涙したとあります。
 『史記』の中でも人気の高い「刺客列伝」にある有名な話です。
 豫譲の言う通り、後に前漢の劉向の『説宛』や、後漢の王充の『論衡』などでもこの話は採り上げられています。

 犬は恩を忘れないから厚情で、猫は恩を忘れるので薄情だという人がいる。
 相手からの見返りを求めているのだろうか。
 「私のどこが好きなのか」と聞かれ、可愛いからとか美人だからとか、逞しいからとか優しいから、頭がいいからとかスポーツが出来るからなどと答えるのは、まだ理性のうち。
 理性を超えた答えは「好きになってしまったのだから、どうしようもない」。
 増田は西郷とはほとんど面識がなく、おそらく隊長として接したに過ぎないであろう。それでも西郷のために殉じた。智伯は家柄と才能の高さを鼻にかけた男で、主君を国外へ追いやり、他の卿たちを見下すような傲岸不遜な人物だった。殺されたのも他の卿を侮ったがゆえの自業自得だった。それでも豫譲は、そんな智伯を見限ることなく、その恩を忘れることなく、その讎を討とうとした。
 理性を超える愛情というのは、時に美しく、時に切ない。