自分の死生観について不謹慎な内容を書きます。




















先日に起こった地震で私は動揺することはありませんでした。 


体を起こして真っ先に心配したのは自分でも家族でもなく、仏壇と遺影に傷が付いていないかでした。


ベッドの上で地震の揺れを感じている時に「これで終われるならそれでいい」と早々に諦めていました。


しかし、周りを巻き込むのは嫌だなと強く感じました。


自宅での自死、ベランダから飛び降りるのも通勤電車に身を出さないのも全て周りを巻き添えにしない為です。


いくら見も知らない他人とは言え、自分の強烈な死際を焼き付けたくありません。


他人の日常を自分の身勝手な行為で奪ってはいけないと自制心がある限り、私は自分の人生の幕を閉じることは決してしないでしょう。


恐らく、病にかかっても屈することはないでしょう。


病に旦那を奪われているので、代わりに雪辱を果たそうと鼓舞してしまうでしょう。


それでは意味がありません。


虚無こそが私の伴侶でなければなりません。


私は生きることを手放すことを躊躇わない存在なのに日々をのうのうと生きていること罪悪感を感じています。


主治医から旦那の病気を世界で治せる者はいないと宣言され、それ以前に旦那の命の灯火に言いようの無い翳りが見えていたことを私は予感していました。


言葉にすると現実になってしまいそうだったので、口を噤んでいました。


彼自身は分かっていたのかもしれません。


お互いに暗い影から逃れらないと感じていたものの明るい未来を歩んでいました。


なので、私を責める者はいないはずなのに私は私を責めないと現在を生きていけません。


私は何年も前に自分の何もかもを捨て、旦那に全てを捧げました。


しかし、私の枯れ葉一枚の命では足りませんでした。


生きる気力、動機を失い、ただ漫然と過ごす日々に吐き気を感じない日はありません。


それでも心理カウンセラー、心療内科に縋り、生き続けることを選択してきる自分を唾棄すべき人間だと心の底で詰っております。


そんな私に「双亡亭壊すべし」の父親を説明がつかない怪異で奪われ、仇を討つ為に努力していたことを誰かに討たれたことで目的が無くなり、新たな目的だった娘は敵側に回り、自分の手で打ち倒した研究者の言葉は胸に刺さりました。


「どんなに心に重い物を積み込もうが、体は生きたがっている。そして、それが死者との違いだ。生者は死者より強いのだ」


真っ当過ぎて、返す言葉ありませんでした。


同時に「月光条例」の主人公の言葉も思い出しました。
周囲に酷い扱いを受けて、もう辛くて、立ち上がれないと泣きじゃくる子どもに向かって、言い放った言葉です。


それでもガマンだ。男はてめえのモノサシを杖にして、泣きながら強くなってかなきゃなんねえんだよ」


私は男ではありませんが、旦那が亡くなる前から自分の価値観を信じ、泣きながらも倒れることはありませんでした。


「双亡亭壊すべし」の研究者の「生きている者は死んだ者の為に何か出来るはず」という言葉にも大きく頷きました。


旦那が自分で話せた頃に私には長生きして欲しいという願いの為に生きていますが、いつしか自分の願いに変わる日が来るのでしょうか。


今日も死に損ないながらも生きて行くしかないでしょう。


強烈なまでに死を渇望するのは、熱烈までに生きたいという生存本能のの裏返しに違いないのですから。