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多弦Gutarist Tominha の部屋

10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

 

 おそらく、僕の紹介したグノーシス主義の神話を読んだだけでも、多くの人は次のような疑問を持つだろう。

 「これがどうして異端とはいえ『キリスト教』なのか。こんな『オリジナルな』神話を作っているのに、どうして彼らは『キリスト教』を名乗るのか。」

 僕も最初はそう思った。僕はキリスト教徒ではない。しかし、戦後の日本はアメリカの「文化的植民地」と言われるぐらいに欧米、特にアメリカンカルチャーの影響は強い。その中にはもちろん「キリスト教的なもの」がたくさん含まれている。聖書なんて読んだことがなくても、ハリウッド映画の『十戒』を見た人は多いだろうし(もちろん年代的な問題はあるが)、ズバリイエスの生涯を(新しい解釈とはいえ)扱った映画やミュージカルもある。そういうぼんやりとした知識からしても、グノーシス主義者のいう創造神話は違いすぎる。また、イエスにしても、あまりにも神格化ー神秘化され過ぎている。

 もちろんキリスト教の方だって「処女懐胎」を天使がマリアに告げにきて、処刑された後に復活して昇天するのだから、「超自然的」であることは間違いない。だが、グノーシスのいう神話はストーリーの根本が違う。あまりにも違いすぎるのである。これほどまでの想像力があったのなら、「キリスト教」を自称しなくても良いではないか、と思わざるを得なかった。

 この疑問に自分なりの答えを見出したのは、最近になって『聖書』の本体の方、特に旧約と呼ばれるユダヤ教の教典を直に読んでからである。今回はその自分の感想に絞って話を進めたい。

「極めて不完全な『旧約』の神」「魅惑的な救世主=イエスという存在」

 見出し的にいうと、こういうことになるだろうか。

 我々はユダヤーキリスト教が「一神教」だということは知っている。そして、この二つの宗教を背景にしてイスラム教が登場し、「一神教」の系譜はそこで終わる。

 この「一神教」の「神」について、そうではない文化に育った我々日本人が抱くイメージとは何か。それは「唯一絶対」「全知全能」であるということだろうし、「神の怒り」によって人類は全て滅ぼされてしまうという「恐ろしい存在」ということも付け加えていいだろう。

 「神」について書かれているのは『旧約』の方である。ところが、この『旧約』を少し読んでみるだけで、我々のいだく「神イメージ」とは随分と違うことがわかる。少なくとも僕にはそう感じた。

 まず、印象に残るのは「神と人間の距離」である。「唯一神」にして「全知全能」というと、どうしても僕らは「神」とは遠いところに、僕らの知らないところでこの世界の根本原理を司っている、そういうイメージを持つ。

 ところが『旧約』の神=ヤーヴェ(エホバ)はとても人間と近いところにいる、とても近くにいて常に人間を見守っている、そういう印象がある。

 たとえば有名な「アダムとイブの原罪」のシーンだが、これは「知恵の実」を食べた二人が自分達が裸であることを「恥ずかしく思い」ヤーヴェが来ても隠れてしまったから発覚する。逆にいうとヤーヴェは「毎日」エデンの園を見て回り、毎日アダムとイブに「会っていた」少なくともその姿を認めていた、ということだ。

 アダムとイブがエデンから追放されたのちもヤーヴェはその子孫たちをずっと見ている。カインによる弟ごろしも、バベルの地で人々が神への挑戦を始めたことも見ている。一見すると些細なこと、例えばアブラハムが正妻=サラとその側女=ハガルとの諍いや、結果としてサラの懇願でアブラハムがハガルを追い出す、という「家庭内争議」も見ている。そして、その都度、ヤーヴェは人々に語りかけ、働きかける。

 もちろん、この『旧約』の中に出てくる「人」はただの「人」ではない。全てはヤーヴェが手ずから作った人間=アダムとイブの末裔である。つまり、他の民族の神話で言うと、これらの物語は「王」と「王族」の物語「系譜譚」と考えられるべきだろう。だが、それにしても、人間である「王」や「王族」とこんなに直接関わる「神」というのは珍しいのではないか。

 しかも、ヤーヴェはたいてい自分から語りかける。もちろん、自らではなく「使い」の場合も多いのだが、「神サイド」から「人間サイド」に語りかけるというスタイルはほぼ変わらない。

 たとえば日本の神はこんな風にいつも人間を見ていないだろうし、まして自分から語りかけはしない。たいていの場合、「神意」は特別な能力を持った「巫女」などを通じて、あるいはいろんな現象を「神の御しるし」と考えることでしかわからない。

 ヤーヴェの場合、その存在は「厳格な父」である。あるいはせいぜい「一族の族長」である。そのくらいの近しい距離で、つまり「現前性」=「面と向かって人間に話しかけている」ような距離感で存在しているのだ。それはどう見ても、我々異教徒が考えるような「唯一絶対神」のイメージとは程遠い。

 その上、ヤーヴェは口やかましく嫉妬深い。最初に作ったアダムとイブに「裏切られた」せいか、人間が造物主たる自分のことを軽んじているのではないか、自分ではない他の神をでっちあげて(唯一神だから、全て他の「神」はでっち上げであるのは仕方がない)進行しているのでは、と疑っている。

 だから、しょっちゅう人間を「試す」。あるいは滅ぼす。洪水を起こしてノアの家族以外を滅ぼした時にはさすがにやりすぎたと思ったのか、「こんなことは二度としない」とノアに誓っているが、その後もアブラハムに子ーイサクを羊の代わりに生贄としてささげろと言ってみたり、あるいは「義人(信仰に篤い正しい人のこと)ヨブ」の信仰心を試すために財産を全部失くさせたり、健康を奪ったりする(しかも、これは「悪魔」が「あんなヨブでも不幸になれば信仰をなくすのだ」と言い出したからである。つまり「悪魔」との「勝負」のためにヨブに災難を与えたのである。) 

 このようなヤーヴェの姿を見ると、僕などはヤーヴェというのはあまりにも「不完全」だと思う。なぜならもし本当に全知全能で「唯一絶対」の「神」ならば、当然、その「被造物」だって「絶対」であるはずである。人間もまた自分の思い通りになっていて然るべきだ。ところがヤーヴェの作った人間、あるいはその人間が生きる世界はちっともヤーヴェの思い通りになっていない。

 ヤーヴェが人間を常に見守り、何かといえば自分から人間のすることに口を出し、「介入」するのは決して「愛情」からではない。そうではなく、自分の作り出した世界、特に人間は全く自分の思い通りに行動せず、自分を裏切ってばかりいるーー少なくともそういう所業が目につくーーだからとしか思えないのである。

 ヤーヴェという存在は、言ってみれば一代で大金持ちになったり、大会社を興したような人に似ている。彼らは「父」としてあるいは「一族の長」として一方で絶対的な権力を手にしている。しかし、その下で育った子孫、あるいは部下はどれもこれも彼には不満である。いつか誰かが裏切るのではないか、そうでなくても自分の業績を台無しにするのではないかという猜疑心から離れられない。で、結果口やかましく説教し、それだけでなく勝手に「試験」をし、勝手に追放したり迎え入れたりする、そんな感じだ。

 これをして、「父権性の根源」だとか色々な解釈をすることも可能であるだろうが、それはここでの本題ではない。

 ヤーヴェが「不完全な神」である、ということはそれ以外にもある。一番僕が驚いたのは、この神は人間に話しかけるだけではなく、人間と対話し、そのことで自分の意見を変えてしまうこともあるといいうことだ。それが「創世記」の第十八章である。

 ここでヤーヴェは後に結局のところ滅ぼしてしまう「ソドムとゴモラ」について、自分は「滅ぼそうと思うがどうか」とアブラハムに語りかける。それに対してアブラハムを驚いて答えるのだが、ここからの対話がなんとも言えない。

 アブラハムはヤーヴェに「正しい人とそうでない人を一緒に滅ぼすのですか」と言い、「五十人の正しい人がいたら、その人たちも一緒に滅ぼすのですか」とヤーヴェに問う。するとヤーヴェは「五十人いたら許そう」という。その言葉にどうやらアブラハムは「交渉の余地あり」と見たのか、次々と条件を引き下げる。五十人から四十人、四十人から三十人、三十人から二十人、最後には「十人の正しい人」がいればソドムとゴモラには手を出さないことをヤーヴェに約束させるのである。まるで「観光客相手のアラブのバザールでの駆け引き」だ(これは事実であって差別的な意味合いはありません。実際にエジプトに旅行した時にガイドから「言い値で絶対に買うな」と散々言われました。)

 アブラハムは「十人」まで「値引き」に成功したことで満足したのか、「家路」に返ったとされている。この話、いくらなんでも筋が通らないとは思いませんか。こんなことができるとしたら、「唯一神」の「絶対性」なんて地に落ちてしまう。ところが、『旧約」にはそんなことまで書かれているのである。このような文章を見たとき、ユダヤ人でもなく、キリスト教に触れることを通じて旧約聖書を読んだと思われる他民族、異文化で育った人はおそらく僕と同じように思ったのではないか、そう考えるのである。(③はさらに続く)