
とまあ、ある意味細部にこだわり過ぎた感もありつつ、「ブレンディのCM」を論じてきたのであるが、僕はこういう反響がこういうCMにあるというを見ると、日本の社会も本当に欧米並みの「人間中心主義社会」になってきたのかなあ、というちょっとうがった感想を持ってしまう。
あまり、くだんのブログ氏を批判するつもりはないのだが、「牛」を「人間」しかも「高校生」に見立てて演じるということに、その人は非常な嫌悪感と倫理的拒否感を持っているようである。
たとえば、こんなやりとりがある。
ブログ氏は自分の評論へのコメントの中に、
ブログ氏は自分の評論へのコメントの中に、
「気になる表現がありました。
『生徒を家畜として描写している』
この作品を自分は『家畜を生徒として描写している』様にしか見えません。
だからこそ、何が『あかん』のかわからない」
この作品を自分は『家畜を生徒として描写している』様にしか見えません。
だからこそ、何が『あかん』のかわからない」
という書き込みがあったことに対して、
「『家畜』を『人間』、それも『将来ある高校生』に例える(ママ)。この時点でダークだし、かなり『あかん』寄りの表現なんですよ。」と答えている。
これまた随分「綺麗事」っぽい回答である。そして、ここだけ回答はえらく断定的である。どうして「家畜を人間でたとえる」(正確にはこうですね)ことはそれだけで「ダーク」で「あかん」のか、ブログ氏は理由を述べていない。述べていないのに「だめだ」という価値判断だけは断定的で、このやりとりだけはなぜか「暴力的」である。
僕はこういう感覚の持ち主というのは、「家畜」を屠殺して解体し、それをもって生きている自分たちの「生の営み」から目をそむけ、見ないことにして生きようとする、はなはだ「反自然的」で、実に「近代産業社会的」な価値観にとらわれている人なのだ、と思う。こういう人にとって、「家畜」はわれわれ人間と同じような「命」を有し、従って「生存の権利」も有している(もちろん、法律的な意味ではなく倫理的な思想的な意味でであるが)存在とは思われていない。「家畜」は人間の都合で選別され、屠殺されて当然の存在である。なぜなら、近代産業社会において「家畜」は「食肉加工品」や「乳製品」の「原料」にすぎないから。たまたま、その「原料」が「生きている」だけであり、そのことには何の意味もないと感じる。
だからこそ、「家畜」を「人間で喩える」のは無条件で「ダーク」で「あかん」ことになる。「人間の高校生」は「将来ある存在」なのだから「牛」のように扱われてはならないという言説の中には、「牛」と「人間」を隔てるもの凄く大きな断絶がある。「牛」は「モノ」だが、「人間」は「将来あるかけがえのない存在」、それくらいの意識差がないと、こんなにあっさりと「あかん」とはいえない。
つまり、これは最初にCMを「気持悪い」といった外国人ジャーナリストと感覚的には一緒である。動物が動物のかっこうをして人間のように振る舞うのが許せるのは(たとえば、このCMを「牛のかぶりもの」をして俳優が演じるとして)、それが「人間のように言葉はしゃべる」ものの、所詮は「ケダモノ」のことである、と了解できるからだろう。たとえ、胴体に高校生の制服をきていたとしても、「ああ、これは牛のことだ。牛なんだから当然だよね」で終わってしまう。
つまり、これは最初にCMを「気持悪い」といった外国人ジャーナリストと感覚的には一緒である。動物が動物のかっこうをして人間のように振る舞うのが許せるのは(たとえば、このCMを「牛のかぶりもの」をして俳優が演じるとして)、それが「人間のように言葉はしゃべる」ものの、所詮は「ケダモノ」のことである、と了解できるからだろう。たとえ、胴体に高校生の制服をきていたとしても、「ああ、これは牛のことだ。牛なんだから当然だよね」で終わってしまう。
ところがこのCMのように「ほとんど人間」しかも「高校生のごく普通の姿」に限りなく近いものになると、嫌でも「牛」と「人間」の距離が縮まる。そこでは「牛」が「人間」と同じような「いきもの」であり、知能もあれば感情もあり、もしかすると本当にこうやって「自分の進路」に一喜一憂し、屠殺場に送られる「仲間」に同情したり悲しんだりしているのかもしれないということを想像してしまう。
ブログ氏が、そして多くのCMを批難している人が感じる「あかん」というのはこの「牛」と「人間」の距離の近さに対してである。そして本来はずっと「下位」に存在するべきで、自分と一緒にされるなんて思ってもいない「家畜」と同一視されたことへの憤慨である。要するに「特別な生き物であるべき人間」としての自尊心が傷つけられた、と怒っているのだ。しかし、その憤慨は持っていき場のないものである。なぜなら、知能も感情もあり、われわれ人間の言うことさえある程度は理解する動物さえ、必要とあらば殺して食べてしまうというのは、人間の生のどうしようもなく「ダークな部分」だからである。そのことから目をそらし、あるいはそらすために、このCMは「管理社会肯定のものがたり」だとか「ディストピアの招来」だ、AGFはファシストだとかいっても、それは単なる「きれいごと」にすぎない。
このCMを見て否定的な感想をもった人の理由を見ても、感覚的に「気持悪い」とか「救いがないからいや』というものが多い。しかし、「気持悪い」のは、人間の、そして人間のみならず、この世界におけるすべての生きものが「食物連鎖」と呼ばれる生命の再生産様式によって縛られている結果である。「犠牲として屠られる家畜」に「救いがない」のは当然で、そこは努力してどうにかなるものではない。もちろん、「表現方法」によって解消などできない。にもかかわらず、こうした感想が生まれるのは現代社会がそうした「生命を維持することから生じる気持悪さ」を、消費者の目からできるだけ見せないように「装っている」からにすぎない。
ところが、このCMはその「見たくないもの」を「可視化」してしまった。「高校生」の「旅立ち」というものに擬することで、「家畜」がたどる運命を「人間」に喩えるとこんなにグロテスクになる、そのことをあからさまにしてしまった。そのことへの忌避感、嫌悪感が、このCMへの「ダメだし」と「炎上」として表現されているのである。
管理社会を、ディストピアを本当に批判したいのなら、これくらいの事実は受け止めてしかるべきだ。システム化されすぎた現代畜産業への批判的な視座をもつことは、人間であるわれわれが「管理社会」の奴隷にならない道を見出すことと共通している。それは決して綺麗事ではない。人間が「家畜」を必要とするのはやむを得ないが、現代畜産業のように「家畜を機械のように扱う」必要はない。そうまでして肉や牛乳を飲まなくても、われわれは生きていけるはすである。なぜなら、そんな消費生活はたかだか100年位の歴史しか持っていないのだから。
ちなみに、この「主人公」を演じた女優さんはかつて映画「ブタがいた教室」に出演していたのだという。ご存知の方も多いと思うが、この映画はある小学校で「食べることを前提に」ブタをクラスで育て、一年後、本当に食べるかどうかをクラスで話し合って決めるという実話をもとにしたものである。おそらく彼女はこのCMの話が来た時、「ブタがいた~」での経験を踏まえ、それなりに考えてこのCMに臨んだのではないかと思う。少なくとも彼女は「自分が女子高校生のかっこうをして牛の運命を演じている」ということの意味について自覚はあったはずであるし、それが「生命の営みとはなにか」という「ブタがいた~」のテーマとも共通するところがあると(いささかブラックユーモアではあるが)感じていたとも思う。それを「女性差別」だと切って捨てるのは、彼女の努力にも水をさすものではないだろうか。
最後に、このCM今年9月にシンガポールで開かれた広告大賞「スパイクすアジア」で銅賞を取ったらしい。そのとき英語の字幕が付き、英語圏の人手も内容がくわかるようになって話題になったということのようだ。その経緯を見ても、これは「いきもの」に対する東洋と西洋の、なかなか解消できない価値観のギャップの象徴でもある。僕はそう思う。
管理社会を、ディストピアを本当に批判したいのなら、これくらいの事実は受け止めてしかるべきだ。システム化されすぎた現代畜産業への批判的な視座をもつことは、人間であるわれわれが「管理社会」の奴隷にならない道を見出すことと共通している。それは決して綺麗事ではない。人間が「家畜」を必要とするのはやむを得ないが、現代畜産業のように「家畜を機械のように扱う」必要はない。そうまでして肉や牛乳を飲まなくても、われわれは生きていけるはすである。なぜなら、そんな消費生活はたかだか100年位の歴史しか持っていないのだから。

ちなみに、この「主人公」を演じた女優さんはかつて映画「ブタがいた教室」に出演していたのだという。ご存知の方も多いと思うが、この映画はある小学校で「食べることを前提に」ブタをクラスで育て、一年後、本当に食べるかどうかをクラスで話し合って決めるという実話をもとにしたものである。おそらく彼女はこのCMの話が来た時、「ブタがいた~」での経験を踏まえ、それなりに考えてこのCMに臨んだのではないかと思う。少なくとも彼女は「自分が女子高校生のかっこうをして牛の運命を演じている」ということの意味について自覚はあったはずであるし、それが「生命の営みとはなにか」という「ブタがいた~」のテーマとも共通するところがあると(いささかブラックユーモアではあるが)感じていたとも思う。それを「女性差別」だと切って捨てるのは、彼女の努力にも水をさすものではないだろうか。
最後に、このCM今年9月にシンガポールで開かれた広告大賞「スパイクすアジア」で銅賞を取ったらしい。そのとき英語の字幕が付き、英語圏の人手も内容がくわかるようになって話題になったということのようだ。その経緯を見ても、これは「いきもの」に対する東洋と西洋の、なかなか解消できない価値観のギャップの象徴でもある。僕はそう思う。