自公あわせてプラス1議席、これは「圧勝」なのか? | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

 昨日の選挙速報番組は一切無視していた。テレビ局の「当落予想合戦」なんて見たくもないし、意味がない。選挙結果は今朝知った。
 「自民圧勝」というキャッチコピーにひっかかる。確かに自公合せて3分の2超なんだからそうなんだとは思う。でも自民党の議席は一つ減った。そして公明が4つ増えたので現状より1議席増えただけ。つまり議会内の「勢力分布」でいうと「自公」と「それ以外」のバランスは「現状維持」ということになる。
 もちろん、安倍政権の危険性を訴えている側からいえば、過半数を大きく超えたのだから、「圧勝」であろうし、自分の立場からいえば「敗北」である。そして、政権側からいえば「自分たちを支持する人たちが圧倒的だった」という意味で「大勝利」である。
 しかし、僕がこのブログで述べてきたように、失地回復のための努力をほとんでできなかった野党の体たらくを考えると、この結果でさえもよくまあ持ちこたえたな、という気がする。得票率、あるいは絶対投票数などの集計はこれからなんだろうが、投票率は戦後最低だという。大雪の日本海側ではのきなみ投票率が低かった。それで1議席減なのだから自民党の獲得した票は前回よりも確実に少ない。一歩引いて見ると、実は選挙以前と事態はなにもかわっていない、いや、「アベノミクス」への「期待」は明らかに醒めている。
 僕みたいな意見は今の風潮では政権側からは「民主党支持者」と映り、野党の特にリベラル・左翼側からは「無責任」で「他力本願」の「裏切り者」になるようだ。朝日新聞のインタビューに答えたある識者は「日本人は民主主義とは『政治家に何かをしてもらうこと』だと考えていて、自分自身で主体的に判断しない」といっている。「民主主義」一般についてはその通りである。しかし、「選挙」は違う。選挙はつまり代議制民主主義は自分の「意見」や「思い」を「政治家」に託すことだ。託す相手がいなければ、投票できない。今回の選挙で顕著になったのはむしろ、そういう「もう投票するところなんてどこにもないじゃないか」という「意見」なり「思い」が明らかに一つの「かたち」になって現れた、ということではないだろうか。
 自民党はあるいは安倍フレンドたちはおそらくこのまま突っ走るだろう。そうなれば可能性は「野党」の「自助努力」であり、意見を託すとしたらそこにしかない。「投票するところなんてない」という思いのうちの何割かはそれを期待しているはずであり(それが「民主党政権誕生」の「風」だったんだから)、野党の側の「変化」を待っているのである。
 僕が言いたいのは、そういう「期待」や「思い」に応えるような努力を野党はすべきだということである。それなしにどれほど自民党の悪政をなじったところで人々はついてこない。特に民主党の責任は重い。政権を取った時の民主党の獲得議席は今の安倍自民党を上回っている。圧勝も圧勝、「大勝利」だったのだ。ところが、民主党は行政運営上の経験のなさ、もっといえば霞が関官僚と闘う手腕をまったくもてず、公共企業・大企業組合に配慮し過ぎて「行政改革」もできず、内部抗争を続け、震災復興と原発事故対処でも一丸となれず、挙句の果てには分裂して自ら政権を「投げ出した」。まさに「投げ出した」のだ。どうしてあんな時期に選挙をする気になったのか、未だに僕は理解ができない。
たとえ話にするとされた方が迷惑かもしれないが、あの民主党の自己崩壊はブラジルw杯の時のブラジル代表の「歴史的大敗」ぐらい無残で、理解しがたいものだ。そのことに対する反省や、どうやったらあんなことにならずにすむのか、それを徹底的に議論して結論を探すのは、それこそ民主党政権誕生のために票を投じた人々へ果たすべき当然の責任ではないか。しかし、今の民主党であれ分裂した「生活の党」であれ、そんなことを論議している感じは全く受けない。とりあえず残った者たちが生き残るために党に所属しているという印象しかない。だから、僕は今回民主党が議席を少しでも増やしてことに驚いてもいるし、投票した人たちのバランス感覚に賛意を送りたい。
だが、そういう「有権者の良識」に期待しすぎるのは極めて危険だ。それは野党の「自浄作用」を逆に阻害するからである。
 政党だけではない。今、マスコミなどで発言している人はいわばみんな「プロ」である。たとえそれで仕事をしているわけではないにせよ、そういう発言をする人として重んじられているから場が与えられるし、記事にもなる。僕が非常に気になるのは、そういう立場にある人間たちがあまりにも安易に「有権者」一般を、あるいは「国民」一般を批判することだ。先に引用した識者の朝日インタビューもそうだが、何かと言うと、「日本人の政治意識」を問題にし、「主体性がない」とかいう。自民党が大勝したのが野党のだらしなさにあったのがこれほどまでに明らかなのに、なにか「日本の民主主義」や「国民性」そのものの「敗北」であり「責任」のようにいう。その構造は70年前の「敗戦」の責任を「日本」全体におっかぶせ、軍部や政治家など、明らかに「指導責任」があったものたちの罪をあいまいにしたのと同じである。
 そもそもが、こと「選挙」という問題に関して、自民党圧勝の現実を有権者の「政治意識」のせいだけにするのはお角違いである。
 「主体的であれ」というのは便利な言葉だが、この文脈でそれを振りかざす人は「文句があるならお前が立候補してみろよ」とか「どこかの政党に入って選挙運動してから文句をいえ」といっているに等しい。つまり「プロ」になれ」というわけである。それなら意見を聞いていやる、と。逆にいえば「プロ」でないもの、「アマチュア」であり、ただの「一市民」であり、究極「ただの一票」を持っているにすぎない人のことなど最初から聞く耳をもたないのである。
 この「選良主義」。左翼でもリベラルでも、進歩主義でも、民権論者でも、攘夷でもなんでもいい。ともかく時の政権や社会の流れに反発し、「よりよい社会」をめざす人々が敗北する時、必ずといっていいほど陥るのがこの「ビョーキ」である。自分たちは「正しいこと」を言っている、世の人々はそれを理解「すべき」である、われわれが「多数」を占めないのは、民衆が理解していないからである、と。
 明治以来日本にずっとはびこるこの「選良主義」が、普通選挙による代議制民主主義の場で発揮されるのは本当に巨大な弊害をもたらす。なぜなら、選挙とは(たとえていえばであるが)、「プロ」である「代議士」やその候補者および候補者を抱える組織が、「アマチュア」であり「聴衆」である人々からどうやって多数の支持を勝ち取るのかを競うことだからである。「有権者」には「1票」がある。しかし逆にいうと「たったの1票」しかない。「権利」はそれぐらい、となれば「責任」もまたそれに等しい。自民党がいやでも今の野党には期待できない、だから投票なんてできないではないか、という意見表明は当然の権利である。
 そう言われたら、では何が自分たちには足りないのか、どうやったらその意見を覆せるかを考えるのが「プロ」の仕事である。それをやれ「大局的な判断」をすべきだとか、「歴史の教訓」に学ぶべきだとか、文化程度が問われるとか、「プロ」である当人が自分の至らなさを棚に上げて説教しているようでは支持は離れるばかりである。「アマチュア」に説教じみたことを言わせるような「圧力」も御免蒙りたい。いずれもそれは「プロ」である政党や候補者の「責任」をあいまいにするものだからである。今の野党は有権者が「政治不信」に陥る責任が自分にあることをほとんどまったく理解していない。入れる政党がない、というのが自分たちの至らなさであるという反省がまったくない。そして、なにより、「責任」とか「反省」というのは具体的な「行動」によって示すしかなく、「ことば」ではない、ということがわかっていない。

 最後に、これは野党の奮起を促し、問題をはっきりさせるためにあえてあげるのだけれど、僕がほんの一瞬だけ見た選挙報道に出ていた小泉進次郎氏の言動に注目を促したい。彼は街頭演説でこんなことを言っていた。
 「今度の選挙で自民党が勝利したかどうか、それを決めるのは投票率だ。投票率が低ければ自民党は負けである。」「若い人が10人いれば投票に行くのは3人だという。その状態を変えるのは政治の役目であり、自分の仕事」「高い投票率の中でこそ『圧勝』したい」
 もちろん、彼には彼なりの計算もあれば、安倍フレンドとの距離も、あるいは父親の影響もあるだろう。しかし、こういわれたら、「上等じゃないか、じゃあ、選挙にいってやろう」と反応せざるをえない。それで入れるのが自民党以外であってもである。狭い意味での政治的立場では彼に反対しながら、広い意味では彼の言い分通りに行動しないわけにはいかない。そして、小泉進次郎という人物に注目せざるを得なくなる。
 こういう発言は常日頃から「民主主義とはなにか」「代議制度の中で国会議員というものはどういう存在なのか」を考えていないとできないし、なにより「一強多弱」という現在の議会状況に対する人々の気持ちを、自分たちの支持者だけでなく、反対する人々たちのそれをもふくめて考えていないとでてこない。しかし、すでに自分たちへの支持を表明している人々だけでなく、そうではない人々を引きつけなければ「風」は吹かない。
 今の野党に必要なのはこの感覚である。