ともかく選挙にいって、誰であれ「非自民」に入れろというけれど | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

総選挙も最終盤である。どうみても自民党の勝利、それも「大勝利」は動かせなくなっているようだ。残念だが、極めて、本当に、承服できないけれど、それでもどうにもこの動きは変えようがないようだ。もちろん、何事も蓋を開けてみなければわからないのが政治である。しかし、巷に蔓延する「無関心」そして「どうせ安倍さんが勝つんでしょ」という無責任ではあるが、現実的な判断を耳にするたびに、どうであれこの結果を受け入れるしかないというのが現実である。
 こうした状況の下、ネットやSNSでは有権者(つまり僕たちのことだが)の「無関心」に警鐘を鳴らし、さらには「どうせ自民党が勝つんだから、投票したってしょうがない」というあきらめムードをを叱咤して、「選挙に行こう」そして「とりあえず誰であれ『非自民』で勝ちそうな候補者」に投票しようという主張やらコラムが続出している。たくさんのいわゆる「知識人」あるいは「オピニオンリーダー」と言われる人々もそう言っている。そしてそれに力を得てか、危機感を募らせてか、「今度こそ投票に行くべきだ。いって自公の大勝を阻まないと次の世代にツケを回す」「歴史を振り返るとき『あのとき、自民党を負かしていれば……』と後悔するようなことになるかもしれない」と、悲壮感も露わに訴える人たちがいる。
 確かに今回の選挙がターニングポイントになるかもしれないと僕も思う。そしてもしかするといわれているように、今が「歴史」になったとき、「第二次安倍内閣」はそこに重要な指標として記憶されるようになるかもしれない。
 しかし、それでも僕は、こういう人たちのいうことに承服できない。気持はわかるし、一つの身の処し方として、あるいは戦術的判断としてそういうことはあるのだろう。だが、そんなことで本当に今進んでいる流れを変えることができるのだろうか。結局は一時しのぎにしかすぎないのではないか、と思えてならないからだ。
 今回の総選挙で自民と公明が予想通り大勝したとしたら、その最大の理由は2年前と同じ、野党がどうしようもなく無力だからである。民主党は低迷し、「第三極」とかいわれてもてはやされた政党は、ことごとく分裂と内輪もめによって無残に姿をさらしている。自民党にとって代わるどころか、結束してなければ自分たちの存在そのものが危ういにもかかわらず、小さなコップの中で争ってばかりいる。「みんなの党」だと称しながら、自分の意見だけを押し付ける渡辺「ミッチー二世」にあいそをつかし、「みんないなくなった」あの党など典型である。国会議員とはあんなに器量が狭くて権力欲ばかりが強く、自分の足もとに火が付いているのを理解しないほどの愚か者ばかり。「非自民」だからといって誰があんな党に投票する気になるだろうか。
 今の選挙制度では「投票した人の中の多数」を取ることが「勝ち」である。投票率がどんなに低かろうが、得票率がどんなに少なかろうが、他の候補者より一票でも上回ってさえいればよい。自民なんて支持しないが、他の政党はさらに信用できないという、おそらくは最大多数の「野党的見解」に、選挙での選択肢はない。
 自民党が大勝するのは「改憲」までを展望する彼らの安全保障政策に「国民」が「誇り」を感じているからでもないし、アベノミクスが成功したからでもない。投票したくなる野党がいないからである。野党がこの2年間なにも変わらなかったからである。従って「自民大勝」となったその暁に、まず責任をとるべきは第一義的当事者である野党各党だ。「民意」とか、「風」とか「無党派層」とよばれる人々の気持がある意味これほどよくわかる選挙もめずらしい。この層の大勢は自民党に「×」だが、今の野党に対しても「×」なんである。野党がもっとちゃんとしていれば、もっと努力してこの層が納得のいくようなことをしていればこの層の少なからぬ人は動く。しかし動かすためには努力がいる。それをまったくやっていないで、「自責点」ばかりふやしているようではお話にもならない。

 「非自民に投票を」と訴える「知識人」や「リーダー」を見て僕が思うのは、「何を今さら」という感情である。今になって「安倍晋三の暴走」に警鐘をならすなら、なぜもっと早く、「非自民」を応援しなかったのか。2年前まで日本は「非自民」が政権を運営していたのである。そんなに「安倍晋三の危険性」を阻止したいなら、その民主党政権の時代になんとしても民主党が政権の座から降りないで済むように応援するなりアドバイスするなりしていればよかったではないか。あのときすでに自民党の総裁は安倍晋三であり、彼が「過激なナショナリスト」であり、政権をとったらこんどこそ「憲法改正」へと動くことはわかっていたはずである。
 それが「危険だ」というなら、民主党政権のままであることが最善の選択であったはずだ。野田首相に「絶対解散なんかするな」といえばよかったし、そう「世論」に訴えるべきだった。文句はあるかもしれない、至らないことはあるかもしれない、しかし、民主党政権が倒れたら、次に来るのは安倍自民党政権だ、それだけはぜったいに避けるべきだ、というべきだった。だが、そんなこと、誰がいっただろうか。マスコミも、大新聞もあるいは「知識人」たちの大多数も当時、民主党政変の至らなさを批難するのを競っていたはずである。東日本大震災があり、世界最大の原発事故が起こったのは間が悪かったかもしれない。当時の菅政権の対応が万全だったとはもちろんいえない。しかし、日本の政府がまがりなりにも「脱原発」の立場を表明したのは歴史上初めてであったし、震災復興が自民党政権になって進んだわけでもない。むしろ、「震災復興よりも景気対策」へと舵は切られている。
 菅政権というのは歴代の政権の中でも恐ろしく批判の多い政権だったが、今にして思えばどうみたって安倍政権よりはましである。その後の野田政権だって今よりはましである。
 その時にはいろんなところでの政権への批判、不満にのって批判を口にしていた「知識人」や「リーダー」に、今さら「非自民に入れろ、それができないということは国民の文化レベルが低いということだ」などといわれたくはない。むしろそうやって、自分の言動をちゃんと省みることもせず、自分はいつも「正しいこと」を主張しているのだが、「国民世論」はそれを理解しないのだ的なスタンスしかとれないこういう輩の文化レベルの低さこそ問題なのではないか、と思う。