好調な「マッサン」のこと | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

相変わらず、NHKの「マッサン」は面白い。世間的にはヒロイン・エリーさん役のシャーロットさんがとても可憐でカワイイとの評判だ。僕もそう思う(オジサンだから)。美人であるというだけでなく、ちょっとした表情とか仕草とかが非常にいいのだ。現在マッサンとエリーさんは新婚なわけだが、新婚さんらしい初々しさというか、ちょと見ているこちらの方が恥ずかしくなるようなシーンがあって(食卓で向かい合う二人のシーンで、エリーさんがマッサンの膝がしらを爪先で"ツンツン"するところとか)、「あーっ、もうやってられんわ」と吹き出しながら見たりしているのである。そんな自分の感想自体に加齢を感じる。
 第1週の「嫁いびり」第2週の「小姑いじめ」も首尾よく乗り越え、日本の習慣や難解な人間関係と関西弁に奮闘するエリーさんのおかげで、どうやら、物語は大阪系ドラマの真骨頂=「第二ステージ」へと入るようである。
 「第二ステージ」のテーマは何か。別に僕が推論する義理もないのだが、それはズバリ「大阪商人(あきんど)の商魂ものがたり」である。これもまた実にわかりやすい、定番の展開だ。以前「マッサン」のことをアップした時にも書いたが、大阪人はいまもなお、この手の話が大好きらしい。実はここが花登筐作のドラマが長続きする理由である。つまり、関西系の「商人(あきんど)商魂ものがたり」は「嫁いびり」「小姑いじめ」などの「人間同士のいさかい」だけに終始しない。主人公たちはそういうまわりの軋轢を乗り越えていきながら、客観的に自分を疎んじるを見返す「勝利」を収める。その場合の「勝利」とは「商売での成功」である。
 今日(10月24日)の放送では他の国産ワインが爆発事故を繰り返し、全国的に「アンチブドウ酒」の雰囲気が充満する中、それを覆し、「太陽ワインは安心・安全・美容と健康によい」というキャンペーンをはるために、上半身裸の女性がワイングラスを掲げるという「衝撃的なポスター」を撮るシーンが放映された。いうまでもなく、これはモデルとなっている後のサントリー=寿屋が赤玉ポートワインのために作ったポスターに由来する。つまり実話である。多くの人がこれも見ただろうけど、当時作られた赤玉ポートワインのポスターの現物がこちら↓
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 ヘアースタイルさえ変えれば、今でも十分に通用する艶っぽさと斬新さを持つこのポスターが実に90年以上前につくられたというところがすごいと思うのだが、このエピソードにマッサンがいたく感激している様子がテレビでは描かれていく。おそらく、来週からはこの「鴨居流ビジネス」に惹かれていくマッサンの姿が描かれるんだろう。
 「商売での成功」を関西人が非常に喜ぶ、というと関東の人たちは「やっぱり関西人はがめついんだなあ」と思いがちである。もちろん、そういうところがないとは言えない。「おっちゃん、これなんぼ」「高いがな、まけてぇ―」というやりとりは今でも関西人のコミュニケーションの基本である。
 しかし、ドラマとして取り上げられる場合にはすくなくとも「実利だけ」「金儲けだけ」の主人公はまず出てこない。そういう人物を脇において、主人公がもとめるの「商いの正道」を歩むことである。つまり、花登筐さんに代表される「大阪商人ものがたり」とは「商売とはなにか」を問いかけ「相手も自分もそして世の中もみんなが得をする商売」でもって「成功」する道を探るサクセスストーリーなのだ。
 僕が子供のころにみた花登筐劇場では昔の大阪商人(おもに明治から戦前)が主人公になっていた。おそらく作者やプロデューサーは、高度経済成長が始まり、会社経営のスタイル、商売のありようがどんどん「アメリカナイズ」されていく時流にもの申すつもりで、「浪花の商道徳」や「商いの正道」を語るドラマを作っていったのだと思う。
 しかし、平成の現代、それだけではさすがにインパクトが薄い、というかそれだけではいかにも時代錯誤的(完全に時代錯誤ではないが)である。そこで登場するのが創業以来一世紀にわたり、日本の洋酒界のリーディングカンパニーであるサントリーだということなのだろう。鴨居商店のモデルでありサントリー=戦前は寿屋と名乗ったこの会社が与えた影響は、僕がいうまでもなく実に大きい。本業であるウィスキーなどの洋酒を日本の中に定着させたのはいうに及ばす、次々とチャレンジングな商品開発をする能力とともに、社会的影響という点で一番大きいのは、「広告」というもののもつ社会的価値を確立した点だろうとおもう。
 戦後、僕の覚えている限りでも「トリス」の漫画キャラクター、「ディン・ドン・シュバー、シュビダバー~」という印象的なスキャットで唄われるCMソング、海外でも賞を獲得した子犬が夕暮れの街中を歩いていく、ただそれだけなのに実に人の心をとらえるCM、松田聖子が歌う「スイートメモリーズ」に涙を流すアニメペンギン、昨今では「ウィスキーはお好きでしょ」のシリーズなど、ものすごい数である。これまたご参考までにYoutubeの動画を↓
 しかも、サントリーがすごいのは昨今の「ハイボールブーム」のように、単にCMで人の心をつかむだけでなく、そこから本当に売り上げを伸ばし、世の中の流行を作りあげるところにある。「伊右衛門」のヒットでサントリーは「お茶は茶葉で入れるもの」という常識をほぼ完全に覆した。 商人とか商売というとすぐに「銭の亡者」みたいに考えるのは、オールド左翼や左翼崩れのブラック企業経営者にまかせておいて、これからのマッサンにさらに期待をしたい。
 ちなみにいうと、こうした「商人道」あるいは「道徳一般」への言及と「道に忠実なものが勝利するストーリー」が必ずあるのが、関西系「人情ドラマ」であり、そこが「渡る世間~」に代表される関東圏の、とりわけ橋田ドラマ、山田洋次ドラマとの違いである。
 橋田ドラマにはこうした「勝利のカタルシス」がない。平凡な家庭の平凡な人々が平凡であるがゆえに様々ないさかいを起こし、泣いたり笑ったりする。そのドラマの「素敵なシーン」に人々は自分を投影し、「不幸なシーン」に自分はこれほどではなかったと安堵と満足を得る。家庭とその中での出来事などというは世代を越えて延々と続くものだし、特別の幸福もないが特別の不幸もないというのが普通だ。橋田ドラマはその現実に従っている。「幸楽」はいつまでたってもおおきくもならないし、といってつぶれもしない。人間の生活、ことに「庶民の生活」とはそんなものだという、諦念がそこには感じられる。それは一種のニヒリズムである。 
 山田洋次さんの「寅さんシリーズ」もそうだ。「寅さん」とそれを取り巻く人間関係はまるで時空のエアポケットにいるようにずっと変わらない。寅さんはなにも「人間的成長」を遂げない。いつまでも風来坊でいつまでも「おせっかい」である。そういう人間、人間関係をずっと描いていられるのは、ある種の「絶望」=少なくとも「人は誰でも『希望ある未来』に向かった前進している」という「ものがたり」の否定なしには成り立たない。だから、橋田ドラマ、山田ドラマはホームドラマでありながら、どこかしら暗く、冷たく、意地が悪い。それがドラマの「薬味」みたいなものであり、ここが好き嫌いをわけるところである。
 関西人はとくにそこで名を成している人たちは、だいたい「新しもん好き」で「人のまねが嫌い」である。そういう「進取の気性」と「独創性」を重んじる風土があるから、日本の高度成長期以降に斬新な経営で名を馳せた人の多くが関西を母体にしている。サントリー、松下幸之助、ダイエーの坪内、京セラ、等々。でも、そうだからこそ、関西人はそのサクセスストーリーのリフレインをつねに求める。そこから離れた人間観を容易に受け入れない。それがある種の保守性を生む。
 僕はそんな関西人の二律背反的ありようは、「資本主義の母国」であるイギリス、とくにエリーさんのモデルであるリタさんの生まれたスコットランドとよく似ていると思うのだが、それは考え過ぎだろうか。