私的70年代日本ジャズ論――その1「ごあいさつ」 | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

なんか、大げさな題だな。でも内容はそういうことを、これから何回かアップしたいと思う。
 友人であり大先輩であるボサノバギタ―の巨匠=長谷川久さんがブログで「伝説のドラマ―」=富樫雅彦さんのことをアップしていた。それにコメントしているうちに思いついちゃったのである。今月古いナベサダさんのアルバムの復刻CDを買ったこともあるかもしれない。なにせそれは僕が一番最初に自分でかったジャズのアルバムだったから。
 ということで、70年代の日本のジャズについてよもやま話を語りたい。もちろん、僕が語れることなんて自分と自分の周辺のことしかない。だからあくまでも感想や評価は「私的」なものである。いやそれはちがうだろうということもたくさんあるだろう。そう言っていただくのも勝手であるが、願わくば友好的な感想が寄せられることを期待したい。なんてね。
 さて、下左の写真をまず見ていただきたい。これが今回買ったナベサダさんの復刻CD。ファンなら知っているであろう名盤「パストラル」である。そして、右がこれも「名盤」の誉れ高い日野晧正さんの「Hi-norogy」。この二枚は両方とも1969年に発売された。当時僕は中学一年生だった。ついでにこのころ貪るように聞いていたもう一枚のアルバムがその下。佐藤允彦さんの「パラジウム」である。
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 こんなものを中学のころに聞いていたのだから、そうとう変わっていたのというか、ませた子供だったと我ながら思う。
 ただ、一応言わせてもらうと、当時「ジャズ」はとくにこの3枚のアルバムに象徴されるような「新しい日本のジャズ」のリスナーは圧倒的に若者だった。10代はさすがに少なかっただろうが、20代の学生を中心にした層とさらにマニアックなそれより上の層によって支えられていたのが当時のジャズマーケットだった。
 
 「新譜ジャーナル」と「guts」の影響

 それが僕の私的な思い込みではないことの証拠が、当時音楽ファンの間で読まれていた『guts』という雑誌の中味である。これは集英社が1969年に発行を始めた雑誌で、当時としてはほとんど唯一の「ポピュラーミュージック」を専門とする雑誌だった。「ほとんど唯一」といったのは、この他に「新譜ジャーナル』という雑誌もこれより前に出ていたからである。しかし、『新譜ジャーナル』がどちらかといえばURC(「アンダーグランド・レコード・クラブ」の略)レコードやエレックレコード(吉田拓郎のデビュー当時の所属レコード、彼はもともとこのレコード会社に「社員」として就職した)などからレコードを出していたフォークソング系のジャンル中心だったのに対し、「guts」の方はオールジャンルで、特に当時の日本の若手ジャズメンやロック系ミュージシャンを積極的に取り上げていることが特徴だった。
 今、このブログアップのために検索してみたところ、古書店の中に創刊当時の「guts」を大量に扱っているところがあったのでアップしておきます。
http://www.re-make-re-model.com/guts.htm
 これを見るとわかるように、たとえば1970年の新年号から3月号まで、3号連続で表紙にジャズミュージシャンが登場している。日野さん、ギタリストの増尾好秋さん、佐藤允彦さんである。増尾さんは当時渡辺貞夫さんのオリジナルグループのメンバーだったから、ちょうど僕が当時聞いていた上の三枚のアルバムの当事者が顔をそろえていることになる。目次に目をやれば、(懐かしいな)フォークやロック関係の記事にならんで、ジャズ関係の「講座もの」が複数連載されているのがわかる。1970年当時、クラシックはともかく、ポピュラー音楽について、これを「学ぶ」という機会は非常に少なかった。フォーク・ロックはもちろん、ジャズだって、アマチュアの愛好家が見よう見まねでコピーして基礎を磨き、あとは有名な演奏家のところに「ぼうや」として「弟子入り」して演奏機会を狙うのが普通だと思われていた時代である。そんな時代に「プロ」が演奏のコツを教える、それがジャズであるというところにジャズが「若者の音楽」であったことが示されているようにおもう。
 ギターを弾き始め、同時にジャズやロックを聴き始めていた当時の僕にとり、『guts』と前述の『新譜ジャーナル』に載っていた長谷川きよしさんの「別れのサンバ」などのギター伴奏譜が唯一の教科書だった。そして、その『guts』に上にあげた3枚のアルバムの楽譜付き解説が載っていたのが購入のきっかけになったのだった。『パストラル』と『Hi-nology』からは表題曲の楽譜が、そして『パラジウム」からはやはり表題曲の楽譜とインタビューが載ったのである。
 今思うと本当に読者層の間口が広いというか、なんもかんもごちゃ混ぜの感がある。が、ともかく「guts」にはナベサダさんの自筆による「パストラル」の楽譜と「モード奏法」についての解説がのり、(簡単なものですが)「Hi-nology」は譜面だけだったが、そこにはコード指定とともに「モードの指定」もあった。「パラジウム」の楽譜は恐ろしいことに(笑)、「分数コード」(!!)が記載され、佐藤さんのインタビューではそれが「ポリコード」というものであることが解説されていた。「下のコードと上のコードを重ねて弾く」みたいな大ざっぱなものだったのだが、それでも「なんかスゴイ」と感心し、一生懸命聞いたり練習したしたものだった。
 何度か人に話したことがあるが、これが僕にとっての「ジャズ初体験」である。そして、「パラジウム」は技術的にも難しいし理論的にも難解だったが、パストラルは「モード一発」でテーマもわかりやすく簡単だったから、ブラスバンドをいっしょにやっていた同級生と二人で(僕がギターで彼がベース=兄がどっかから持ってきていたエレキベースを拝借していた)演奏したりしたのが、「ジャズ初演奏」である。スタンダードナンバーではなく、ブルースですらなく(だいたい、このころの僕は「ジャズのブルース」を聴いたことがない)、もちろん4ビートでもない「パストラル」が「ジャズ入門」だったわけだ。その後、この友だちが「パラジウム」に入っていたビートルズナンバーの「ミッシェル」のテーマ部分のベースをそっくりコピーしてきたのでそれを演奏したり、「Hi-nology」の「モード指定」を忠実に守ってアドリブのまねごとをしたりして遊んでいた。(ちなみに、僕が去年出したCD=『Ever Green songs』の中に入っている「ミッシェル」はその当時の経験が元になっている)

 「異端」な当時のトップたち

 考えてみると、ものすごい偏向というか「異端の道」から入って行ったものだと思う。おかげで高校の頃に友達の先輩の大学生に連れられて「大人のジャズバンド」の練習に参加した時、ソニークラークの曲なんかをその時初めてやってめんくらったことがあった。確か「ブルーマイナー」だったとおもうのだが、上にあげたアルバムや70年代マイルス・ウェザーリポートのようなものばかり聞いていた僕にとっては、まるで「ムード歌謡」にしか聴こえなかったのである。これが「ジャズ」だというなら、二度とやりたくないと思ったものだ。
 実際、上にあげたアルバムにジャズの伝統的なフォーマットに準拠した曲はひとつもない。一応「4ビート」といえるのが「パラジウム」収録の「スクローリン」と「ハイノロジー」の「エレクトリック・ズー」だけど、両方ともテンポは高速だし途中からはフリーになってしまうので、とても「伝統的」とは言い難い。いまの耳から聴くと、この中で一番オーソドックスなジャズに近いのは「パラジウム」だろう。編成が伝統的なピアノトリオだし、この中では唯一「電気楽器」を使っていない。
 逆にいろいろな意味で伝統と一番遠いのは、一番聴きやすい「パストラル」である。ハーモニー、楽器の編成、リズムのいずれもがいわゆる「ジャズの定番」から外れている。そのうえこのアルバムは当時ロックの世界で流行していた「トータルアルバム」、つまり「アルバム全体にあるテーマがあり、一曲ずつ聴くと共に、曲の並び方も含めた構成全体を楽しむ」という性格を持っている。「パストラル」=「田園的な」というアルバムタイトルはもちろんベートーベンの「交響曲第六番」からの引用なのだろうが、アドリブソロを含む長めの演奏と共に、ピアノソロやフルートとギターのデュオなどの小品を四曲入れ、「田園」というか大都市郊外の風景を描写する「組曲」的な構成力を感じさせる。このように「テーマ性」を意識したジャズのアルバムは数少ないし、成功した例ももっとすくない。時代が下ってからの成功例と僕が思うのはパットメセニーの代表作の一つ「Still Life」だろうか。
 
 七〇年代ジャズへの私的思い入れ

 僕が七〇年代のジャズを日本のミュージシャンや日本のリスナーのありようを中心にアップしようと思うのは、やっぱりこのころのジャズシーンは明らかに今とは違うエネルギー、こだわり、密度があったと思うからである。少なくとも最先端をゆくミュージシャンに「伝統」の囚われない、むしろ伝統の枠を超えていくことを目指した熱があったし、レコード会社や雑誌・テレビ・ラジオなどのメディアにもそれがあった。当時の「ジャズ」とはそういう可能性を秘めた「未来志向のコンテンツ」だったのである。
 今、ジャズは様変わりをしている。重視されるのは「伝統的」なものである。内容的にもトラッドな、「いかにも」というジャズが好まれる。演奏する側も聴く側もいわゆる「西欧クラシック音楽」にもとめるような「保守性」を、ポピュラー音楽の中の「ジャズ」というコンテンツに求めているような気がする。
 確かに「若者向けのジャズ」というものもある。「クラブジャズ」とかいわれるものがそれだし「爆音系」とかいろいろなサブジャンルが生まれていることは一応僕も知っている。しかし、それらを聴く人たちとそうでないジャズを聴く人たちの落差は極めて大きく、もはや同じジャンルであることが困難になるほどだ。相互の交流や影響は演奏する側にさえほとんどない。というよりそのジャンルでは四〇年前よりずっと貪欲で心変わりの頻繁な業界やメディアのせいで、才能はひたすら消費されるばかりである。そこから何かが生まれるという要素が極めて少ない。だから、生き残っていく「若手」というのは、たとえばスガダイロー氏のように、実際には四〇歳を過ぎ、山下洋輔氏のような「七〇年代ジャズ」の立役者たちの「芸」をすでに身につけていた人だけなのである。
 昔は良かったな、といい始めるのは年寄りになった証拠だというが、もはや僕も「加齢」を隠すような引け目にするような歳ではない。子供も孫もいないが紛れもなく「ジジイ」である。だが、そういう年齢になったからこそ語れることがある。その中でも重要なのは「現実を相対化する」という力だ。若い人たちにとって「今の現実」は「絶対」に近いものであり、自分には自分一人があがいても変えられない所与の前提である。しかし、加齢を経て経験を積んだ僕なんかからすれば、この「今ここにある現実」は絶対不変なものではない。いろいろなプロセスを経てこうなった「結果」であり、個人の力で簡単に変えられるものではないが、変わらないでいる保証などない所与である。
 今のような「ジャズ」、「ジャズシーン」は世の中の流れの中で生じた「ひとつのありよう」である。ちがうありようもあっただろうし、変わる可能性もあり、しかし問題はどんなシーンを僕らは望むのかということだろう。そんな思いをのせて、七〇年代ジャズとは特に日本のジャズシーンとはいったいなんだったのかを、これからもよもやま語っていきたいと思う。