日本代表の敗戦から一日経って、いろんなメディアで評論がされている。ほとんどのメディアが取り上げているのが「ザック監督の采配ミス」というやつ。これは本人も半ば認めているらしいが、要するに直前になって「守備重視」の試合運びを選択したということ。ところが「守備重視」が「引いて守る」になり、さらに「消極的」へと変化して、逆に相手にディフェンスの裏を取られ、走りまわされた揚句に消耗戦を強いられた、それがドログバ投入後の2点献上につながってしまったという分析である。
まあ、確かにそうなのかもしれない。
ボール支配率も40%前半だったというし。複数のメディアが言うからそうなんだろうな。
でも、僕はそれもまた「サッカーの魔力」の一つなんではないかと思うことにしている。
「ザックジャパン」と呼ばれる今の日本代表は、本当にハラハラドキドキが一杯詰まった、ジェットコースターみたいなチームである。調子がいい時は本当に「これなら世界で通用する!」と歓喜するのだが、負けるときはこれまた「いったいそれなに?」と怒りたくなる体たらくを見せる。天使と悪魔というのはちょっと違うが、メダルの裏表のように強さと弱さが同居している。それが一番端的に表現されたのが去年のコンフェデ杯のイタリア戦とこの前のザンビアとの親善試合だ。
「カテナチオ」と称される「堅守」をほこるイタリアから3点奪取という「戦果」を勝ち取りながら、4失点もして負ける。いくら親善試合で、しかも調整中でコンディションガタガタとはいえ、格下のザンビア相手に2点を取られながらロスタイムに逆転という「スリル満点」の展開。僕はザンビア戦を見ていたのだが、その試合展開もさることながら、2対2になったあたりからお互いヒートアップして、まるで「w杯本戦」みたいなケンカ腰の試合になったのに驚いた。あの闘志むき出しの感じ、切れると何するかわからない「獰猛さ」はこれまでの日本代表にはなかったものだ。得点力もおそらく歴代トップだろう。
しかし、それは「攻め」に回った時の「守りのもろさ」と表裏一体でもある。ある新聞にザックさんはザンビア戦を終えて、あの守備の悪さがトラウマとして残り「守備重視」を決断したと書いていた。
この判断、僕は責められない。それほどあのゲームは「期待と不安」が見事なまでに混在化した、指揮官泣かせの結末だった。直後の新聞各紙も「守りへの不安」を書き立てていた。しかし同時に、あの鮮やかな大久保の逆転ゴールはザックジャパンの、今の日本代表の「強さ」を象徴するシーンでもあった。
悩むのは当然であるし、迷いが出て当然である。
それでも、今さら言っても仕方がないが、それでももし、ザックさんがザンビア戦に動揺せず、自信を持って「攻めていこう」と言っていたら、コートジボアール戦はザンビア戦の再現になったかもしれない。ただ、そうなればなったで「3点取っても4点取られた」イタリア戦の再現の可能性もあったのであるが。
ギャンブルである。要するに「賭けに出るか出ないか」なのだ。そして、常識的に考えてW杯の本番で「賭け」に出ることはない。ザックさんの判断はそういう意味で当然の結果でもある。(僕自身、「守り重視でいったほうがいいんじゃないか」と思ったし)そして、それを覆すほどの力を、もっと言えば「サッカーへの成熟」を日本はもっていない。「代表」が、ではない。サッカーをはぐくむ日本社会全体がまだ持っていないのだ。
ある人は言う。「攻撃的サッカーが日本代表の持ち味ではなかったのか」と。しかし、「攻撃的サッカー」が「持ち味」なのは、「今の」日本代表にいえることであって、日本がずっとそういうサッカーをしてきたわけではない。そもそもそんな実績は日本にはない。「日本代表のサッカー」は本戦出場を果たしたフランス大会から今日まで、W杯ごとに違う。その時にいる選手の力、監督の采配、あるいはその時の「流行」でまったく変わってしまう。
「強豪国」と呼ばれる国jのサッカーはそんなにはかわらない。ブラジルには「ブラジルの、イタリアにはイタリアの、スペインにはスペインの、サッカーがある。オランダもアルゼンチンもそうだ。勝っても負けても、その基礎はあまり変らない。それはその国の社会の人々が変えることを望まないからだ。監督が変わり修正を加えることはありうる。しかし、それがその国のスタイルを大幅に変えるようなものの場合、大抵は上手くいかない。なぜなら、ナショナルチームのサッカーはその国でサッカーに親しむ人すべてのロールモデルだからだ。
ギャンブルである。要するに「賭けに出るか出ないか」なのだ。そして、常識的に考えてW杯の本番で「賭け」に出ることはない。ザックさんの判断はそういう意味で当然の結果でもある。(僕自身、「守り重視でいったほうがいいんじゃないか」と思ったし)そして、それを覆すほどの力を、もっと言えば「サッカーへの成熟」を日本はもっていない。「代表」が、ではない。サッカーをはぐくむ日本社会全体がまだ持っていないのだ。
ある人は言う。「攻撃的サッカーが日本代表の持ち味ではなかったのか」と。しかし、「攻撃的サッカー」が「持ち味」なのは、「今の」日本代表にいえることであって、日本がずっとそういうサッカーをしてきたわけではない。そもそもそんな実績は日本にはない。「日本代表のサッカー」は本戦出場を果たしたフランス大会から今日まで、W杯ごとに違う。その時にいる選手の力、監督の采配、あるいはその時の「流行」でまったく変わってしまう。
「強豪国」と呼ばれる国jのサッカーはそんなにはかわらない。ブラジルには「ブラジルの、イタリアにはイタリアの、スペインにはスペインの、サッカーがある。オランダもアルゼンチンもそうだ。勝っても負けても、その基礎はあまり変らない。それはその国の社会の人々が変えることを望まないからだ。監督が変わり修正を加えることはありうる。しかし、それがその国のスタイルを大幅に変えるようなものの場合、大抵は上手くいかない。なぜなら、ナショナルチームのサッカーはその国でサッカーに親しむ人すべてのロールモデルだからだ。
日本でも「野球」はそうなっている。どんなにメジャーから選手が来日して活躍しても、日本の「野球」のありように大きな変化は起こらない。アメリカの「ベースボール」とは違うのである。しかも、だからといって日本がアメリカに勝てないわけでもないことはすでに証明済みである。日本の野球のありように文句をつける「野球ファン」も多い。でもだからといっておいそれとはかわらない。なぜなら、日本の野球のありようは「プロ」だけが作っているわけではない。高校野球の80年以上の伝統があり、それを支える小学校、中学校の野球がある。それらの全てが「日本の野球」を作っているのである。
サッカーにはそこまでの「歴史と伝統」がない。だからこそ、そこには自由があり、ともすればルーティン化し、停滞し腐敗さえしそうになる「野球界」にはない新しい空気がある。しかし、その分「もろい」。そのもろさの原因の多くは、こうした「伝統」とそれを通じて作られた「ロールモデル」の不在である、と僕は思う。日本には「日本のサッカー」というモデルがないのだ。だから、監督は迷う。選手も迷う。そして観客も揺れ動く。それは「16強」になるのが当たり前のように雰囲気に社会がなっているのに、それを支えているのが「個人の努力」にすぎないからである。
今日の朝日新聞で前監督だった岡田さんが「原点に帰れ」というコラムを書いていたが、この「原点」とは「ザックジャパンの原点」のことである。それは決して「日本サッカーの原点」ではない。(だって言っている岡田監督自身がまったく違うサッカーを選択したわけだから)そう言える岡田さんは立派である。なぜなら、実績を残した彼のやり方を「否定せよ」といっているわけだから。しかし、わずか4年前の代表監督さえ、そのようにしか語れないところに日本サッカーが表面的には超えられそうに思えて、実は簡単には超えられない「壁」を感じる。それが「伝統の力」なのである。
僕は、今ようやく日本代表に「日本のサッカーとは何か」が問われるような「伝統を創造する段階」が到来したのではないか、という感じがしている。ここは、一試合一試合の結果だけではなく、一体なにが「日本のサッカー」なのかを見極める最初のステップとすべきではないのか、と思う。
そのためにもメディアは監督や選手を必要以上に腐らせるような扱いをすべきではない。メディアは日本代表が勝ってくれないと自分たちの売り上げが減るので、負けるとともかく「犯人探し」に奔走する。そういうメディアの反応こそがスポーツを委縮させるのものなのにである。そして、たとえどんな結果になっても、本田や香川や長友や岡崎が「もう一度W杯に行きたい」と言えるようであってほしいと思う。36歳のドログバなどと比べれば彼らはまだ若い。彼らにはW杯後もヨーロッパトップリーグでの闘いが待っている。そんな選手が複数いる世代が彼らが最初である。「8強」とか「4強」とかいうレベルが本当に見えてくるのは、そういう彼らがより人間的に成熟する、その未来にこそある。
そのためにもメディアは監督や選手を必要以上に腐らせるような扱いをすべきではない。メディアは日本代表が勝ってくれないと自分たちの売り上げが減るので、負けるとともかく「犯人探し」に奔走する。そういうメディアの反応こそがスポーツを委縮させるのものなのにである。そして、たとえどんな結果になっても、本田や香川や長友や岡崎が「もう一度W杯に行きたい」と言えるようであってほしいと思う。36歳のドログバなどと比べれば彼らはまだ若い。彼らにはW杯後もヨーロッパトップリーグでの闘いが待っている。そんな選手が複数いる世代が彼らが最初である。「8強」とか「4強」とかいうレベルが本当に見えてくるのは、そういう彼らがより人間的に成熟する、その未来にこそある。