「あきらめない会津」と日本の近代 | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

15日の日曜にNHK体がドラマ『八重の桜』が終了した。
 かみさんが「もう15日でおしまいだよ」というので、ちょっと見るのを中断していたこのドラマを今月は「まじめ」に見た。
 
 朝ドラの「あまちゃん」が社会現象ともいえるような大ブームを巻き起こしたのに比べ、同じ「東北」を題材に、しかも「復興」に尽力する東北、就中福島を応援するためにあえて今年の大河として制作されたこの『八重の桜』のほうはそれほどの話題にはならなかった。いや、話題になったのだが、それは相変わらずの低視聴率とか、『八重の桜』という題名とは裏腹に、活躍するのは会津藩主松平容保をはじめとする男性ばかりという物語の進行への文句など、ネガティブで個人的に云わしてもらえばいささか「低劣」な「批評」ならざる批評が多かった。
 
  僕は昨今のNHKの大河が高い視聴率をとるなんてことは最初からあり得ないと思っている。なぜなら、もはや大河ドラマの「主人公」たるべき歴史上の人物などとうに出揃っている。普通に考えたらマンネリにならない方がおかしい。ある意味「つまらなくて当然」なのだ。でも、そこでNHKはあえて「おもしろい大河」を作ろうとした。その結果出した答えは「歴史の定説への挑戦」である。幸い、日本史学会ではこのところ「歴史の定説の見直し」が盛んであり、歴史教科書も書き換えがかなり進んでいる。それらを受けて制作されたのが「篤姫」であり「平清盛」だった。
 定説を覆す以上、時代劇の「決まりごと」をそれとして受け取ってきたような従来の視聴者には戸惑いが生まれる。「篤姫」はもともと「皇女和宮」をいびり殺した「鬼姑」であり、その夫家定は「愚昧の君」でなければならなかった。平清盛はやはり源義経の「敵役」として、脂ぎった坊主頭で暴虐を尽くしているのがお定まりである。史実とはあまりにかけ離れた可憐で凛とした「宮崎あおい篤姫」と、頭脳明晰な「堺雅人家定」はそれでも「美しい」ので許されたが、「武士の世」への野望に燃える「マツケン清盛」とその配下の「平家青年団」は演技も稚拙なら「なり」も汚くてひんしゅくをかってしまった。そのうえ、伊藤四郎さんの白河天皇を筆頭に、天皇家の人間はみんな同性愛やばくちと今様と権力争いに夢中になる変態ばかり、というのでは、たとえそれが史実であっても「受ける」とは到底思えない。そこんところはNHKも失敗したなと、僕なんかは思っている。

 『八重の桜』は、そうした「歴史の見直し」という流れの中で考えるべきドラマであり、そのでき如何にかかわらず、実は画期的だったと僕は思っている。なぜなら、『八重の桜』は数ある大河ドラマの中でも、いやおそらくテレビ局が制作した時代劇としては最も徹底して「敗者の視点」から歴史を捉えなおしたドラマだったからだ。
「会津」と聞いて、他の地域の人、特に僕のような西の方の人間が思い浮かべるのは「白虎隊」である。彼らの「悲劇」は繰り返し映像化され、舞台化された。しかし、彼らのような少年たちを生み出した「会津」というものをトータルに描こうとしたドラマの存在を少なくとも僕は知らない。前にも述べたけれど、戊辰戦争を描いたドラマの主人公で、幕府側として登場する「役者」はまずは「新撰組」、そして「勝海舟」、やや飛んで「井伊直弼」、そして「徳川慶喜」ぐらいである。会津の存在は「新撰組」の後見人というか、彼らを手足として「使い捨てた」ゴリゴリの「佐幕派」であり、「頑迷固陋」な旧体制の見本以上ではなかったように思う。
  『八重の桜』は、この「知っているようで実は誰も知らなかった会津」というものを真正面から捉えた初めてのドラマである。しかも、目的は「会津の大義」を明らかにすることなのだ。敗者として、「賊軍」として、あるいは「保守反動」として、歴史の流れの中で消えてゆくべき存在としてのみ位置づけられていた「会津」が、この物語ではじめて「肯定的」に捉えられたのである。
 「敗者」を題材にした時代劇は別に珍しくない。平家、太平記に記された「南朝方」、あるいは織田信長、豊臣秀吉も最終的には敗者である。しかし、「会津」はこうした近世以前の「敗者」たちと比べて大きな違いがある。それはその「敗北の傷跡」が未だに癒えていないことである。なにしろ、まだ150年前のことなのだ。それは「日本という国」が近代国家として形づくられた時の物語であり、アメリカでいえば南北戦争と同時代、リンカーンが「人民の人民による人民のための政治」とゲティスバーグで演説した時とわずか6年しか違わない時代の出来事である。
 多くの「近代国民国家」はこの時代のことを、「建国の歴史」の中の重要なエピソードとして記憶している。その意味で「会津の物語」が当の「会津人」にとって未だ全く忘れ得ぬ過去、まるで昨日のことのように思い起こされるのはある意味で当然のことではある。だが、なんといってもそれは「敗者」の「賊軍」の物語だ。明治維新でスタートした「近代日本」にとって、それは本来ならば決して肯定的には語られてはならないものだった。たとえは極端だが、アメリカ人にとっての「南部」が「奴隷制度とKKK」に象徴されるような「暗黒」であるように、「会津」もまた、「封建制」の代名詞として取り扱われるべきものであったし、ほぼ、そう扱われてきた。
 僕の言い方は誇張されているかもしれない。でも、綾野剛が過剰なまでの悲壮感で演じ、誠実だが神経質そうな表情で一躍有名になった「松平容保」という人物について、会津以外の人はこれまでほとんど知らなかったと思う。また、接する機会も動機もなかっただろう。「什の掟」や「日新館」に見られる「藩士教育」がこういう形で取り上げられた事もこれまでの「幕末もの」ではなかったように思う。
 
 「明治維新」自体が、「会津」という視点からみると違う風景になる。勤皇派の「大義名分」のひとつにあった「近代化」と「尊皇」について、実は会津も充分その必要性を認めていたことがドラマでは繰り返し強調されてきた。「近代化」についていえば、そもそも八重の生家である山本家そのものが象徴となっている。「鉄砲」という「近代兵器」を扱う家柄に生まれたがゆえに、兄であり後継ぎである覚馬は「近代化の先駆」としてシンボライズされ、勝海舟、吉田松陰、西郷隆盛らと対等の「傑物」として描かれている。八重が鉄砲をもって会津戦争に参加するのも、彼女が「近代的女性」として「自立」していたからだという形で捉えられる。「尊皇」では孝明天皇と容保との信頼関係が重要な位置を占め、「会津は賊軍にあらず」という言葉がまるで「呪い」のように語られ続ける。
 「維新」という「ドラマ」の登場人物も大幅に変わる。まず、ヒーローとして人気ナンバーワンの坂本龍馬の出番はない。佐幕派ヒーローの「新撰組」も影が薄い、というかあくまでも彼らは会津の京都警護の中の一つの部署の人間にすぎない。長州も会津の「敵役」であり立場が離れすぎていてあらすじからは遠い。浮上するのは「薩摩」であり、物語は「薩摩と会津」という形で語られていく。この両者が組んだことにより、「八月十八日の政変」と「禁門の変」で長州は京都を追われ、逆に薩摩が長州と組んだことにより、会津は「賊軍」として京都から追放される。歴史に「もしも」は禁句だけれど、もしも薩摩が会津と手を組み続けたら、たぶん長州は会津の運命をたどり、日本の「近代化」は「公武合体」派によって、徳川、薩摩、会津、土佐などの諸大名による「合議制」のもとで進められただろう。(その意味では坂本龍馬が薩長の仲立ちをしたことの影響は――それが真実だとして――非常に大きい)今ではそういう「ありうべき可能性」を考え、薩長藩閥政府による「明治政府」というのは「最悪の選択」だったという歴史学者もいるくらいだ。
 
 僕がこの『八重の桜』について一番興味をもっていたのは、この敗者である「会津の物語」が、明治以後どのように捉えられるかであった。そのことはドラマスタート時にアップした。その理由を繰り返すと、明治以後の「会津」はいわば第二次大戦敗戦後の日本みたいなものである。戦争にまけ「賊軍」の汚名を着せられ、武士の世の中が終わることで、深刻な「アイデンティティクライシス」が起きただろうと思ったからだ。そのとき、「キリスト教」に回心した八重さんはかつての会津をどう思うのか、それがどう描かれるか、が見たかったのである。
 結果は肩すかしをくらった感じである。ひとつはドラマは京都で同志社大学を設立に奔走する八重と新島襄の夫婦のものがたりになってしまったことにある。まあ、これはドラマとしての組み立ての問題だからいたしかたない。
 もう一つは、このドラマで描かれている会津の人々はなにも「アイデンティティクライシス」なんて起こしていないからである。そして、会津若松市に残る「白虎隊顕彰館」などを訪れた印象からいって、おそらく実際にもそうだったのだろうと思った。会津は負けたけれど、「会津的なもの」は明治の時代になっても色濃く残り、再生産されている。それは当人たちの「あきらめない」気持ちと時代の感情がどこかでシンクロしていたのだろうと考えたのである。

 明治をどう考えるのか、ということをめぐって昨今では司馬遼太郎氏の視点が話題になった。きっかけは戦後歴史教育を「自虐史観」と批判する連中が、司馬氏の視点を批判したからだ。彼らは司馬氏の視点=「司馬史観」は明治時代を「大らかで明朗な日本の青春時代」と描き出すために、「昭和」をことさらに「暗いファシズムの時代」と対置させていると言い出したのだった。それで、「司馬史観」とはいったいなにか、という話になり、「坂の上の雲」の一文が注目されることになった。
 僕の感想を言えば、司馬遼太郎氏の視点は「勝者の視点」だと思う。彼のいう明治人の「大らかさ」や「明朗さ」は「維新」によって「道を開かれた人たち」つまり「坂の上の雲」を「見上げる」ことができるようになった人たちの物語である。しかし、「維新」は逆の立場の人をも生んだ。振り仰いでも空が見えることのないような「道」を歩かされた人たちである。それが「会津」であり、彼らに象徴される「東北」、「賊軍」「朝敵」と呼ばれた人々とその末裔たちである。
 彼ら「敗者」たちは、普通に歩いていたら決して「雲」を仰ぐこともできない道を必死で這いずり上がり、無理矢理「坂」に合流しようとした。つまり、「敗者」となった人々にとり、「明治」とは「汚名を晴らす」ための時代である。そんなことが京都に移り、新島襄とともに同志社大学設立に奔走する八重の姿から見えてきた。
 明治維新によって逆に道を閉ざされた人々はもちろん会津だけではない。日本列島の北と南の端のいた人々、アイヌ民族と琉球民族(あえてこう呼びたい)もまた、自らのアイデンティティを根こそぎ奪われた。しかし、アイヌ民族と琉球民族はあえていえば「日本」というアイデンティティの「外」にいた人々である。これに対して「会津」は内側も内側、自らを「武士の中の武士」を位置づけ、誰よりも「徳川宗家」に尽くすことを旨とした「特別な藩」である。その精神は他の諸藩の「武士たち」にとって無縁なものではなかったはずだ。こうした「武士たち」にとって「会津」は「敵」ではあるが、もともとの価値観からすれば「模範」である。公には「朝敵」として迫害されたとしても、その影響力は決してすくなくなかったはずである。
 ドラマの中にも出てきたが、多くの会津出身者たちは新政府の軍人となったり、官僚になったりして明治の10~20年代にはそれなりの地位についている。しかし、彼らは「賊軍」出身であるために決してあるところ以上には上ることができない。権力は薩長に、特に長州によって独占されたままである。世の中全体でも、藩閥政府によって「敵」とされた人々、あるいはもともとは尊皇側にいるか少なくとも幕府に与しなかったにもかかわらず、結局は薩長によって、最後には長州による政権の独占によって権力の中心から排除された人々の数は絶対に過半数を上回っていた、と僕はおもう。そんな「明治」という時代の中で、「今にみていろ」「いつか見返してやる」という「会津」の気持は、「近代化」の裏側で、あるいは底辺で、ずっと人々の中に浸透していったのではないだろうか。

 昭和において顕在化する「大日本帝国軍隊」の思想は「武士道」である。しかし、この武士道は宮本武蔵が「禅」の影響を受けて書いたという「葉隠」のような、どちらかといえば「自己修養性」のつよいものとは違う。それはなにより、「主君」への「忠義」を第一に置くものであり、「目上」のものへの絶対的な服従心や、「武士は二君に仕えず」「生きて虜囚の辱めを受け」るよりは「自決」=「切腹」を「名誉」とする、という徹底した「集団主義」=全体主義の思想である。そんな「武士道」を明治までどこよりも伝承したのが「会津松平藩」だった。子供のころに叩きこまれる「什の掟」、日新館での教育、「藩祖」のよる「家訓」は確かに維新の時まで会津の「精神的支柱」としてあったのだろう。
 明治以後の日本の軍隊の思想が「武士道」である、というのは、よく考えればおかしな話である。「明治維新」は「武士」から権力を取り上げるためのものだったはずだから。じっさいにもちょんまげを切らせ、刀を取り上げ、藩を県にし、大名を排斥したのが「明治維新」である。しかも、薩長などの勤皇派勢力にこのような意味での「武士道」、つまり、「君主への忠義」とか「主従の契り」といった発想は薄かったはずである。なぜなら、そんなものに価値を置いていないからこそ、西郷隆盛や桂小五郎が藩の中心にのし上がれたのであるから。
 ところが、それでも明治維新の立役者たちは「武士」であり、「もののふの道」を「是」とする教育を受けた人間たちである。結局彼らは自ら作り上げようとする「近代国家」の精神に、その組織原理に習い親しんだ「武士道」をもってくるよりほかになかったのだろう。会津を賊軍とし、鶴ヶ城を攻略しながら、薩長の「武士たち」は負けるとわかっている鶴ヶ城に主従ともども立てこもり、老人から子ども、女性までが闘おうとした会津の姿を心の底から否定することはできなかったはずである。むしろ「憧れ」ですらあったと思う。(薩摩も長州も維新当時の殿様は大した人ではないからねぇ)
 このような薩長藩閥政府の抜きがたい「会津コンプレックス」と、反(非)藩閥政府にならざるを得ない多くの民衆の反発が作り出したひそかな「会津」へのシンパシー、これが「明治」という時代の裏側で流れていたものであり、昭和の時代にそれが顕在化し極端化した時、僕は「軍国日本」は誕生したのだとおもう。

 内田樹氏によると、1930年代に軍上層部から「長州閥」がいなくなると、そこに一斉に「賊軍出身の秀才」が雪崩を打ってポストについたという。東条英機は岩手、関東軍の実力者石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手と「会津」こそいないが、いずれも「東北列藩同盟」の末裔がずらっと並ぶ。内田氏は彼ら「東北人のルサンチマン」があの破滅的な戦争を引き起こす要因になったとブログで高校生相手に力説している。(内田さんの三代前は「会津藩士」だそうだ)それも、あながちうそではないなという気が僕にはする。
 歴史に「もしも」はタブーだけれど、もし、戊辰戦争のどこかの時点で明治政府と会津との間に和解が成立し(たとえば鶴ヶ城開城のあと)、会津が少なくとも「普通の状態」で維新を迎えることになったら、「会津」のあの精神はいずれは消えていったのではないだろうか。「敗者」の汚名を着せられ、疎外されたがゆえにますますかたくなに会津の精神は受け継がれ、意図せぬ形で昭和まで生き延びてしまったような気がする。
 ドラマの最後に八重が「わたしは決してあきらめない」という。このセリフはドラマの流れからいうと、戊辰戦争の反省から新島襄の説く「キリスト教的友愛の精神」によって「平和と学問」の重要性を知った八重の、日露戦争に到らんとする世の中への抵抗の現れである。しかし、「八重さんの決意」は会津の中でも異端である。その異端ぶりがもっと強調されれば、僕が感じたようなことがもっとはっきりしたのではないかと思うんだが、まあそれは無理な注文というべきだろう。
 このドラマのエンディングで僕が一番感心したのは一家全員が「集団自決」した西郷頼母と八重の再会のシーンである。そこで脚本家は頼母に「八重は桜だ。桜はあそこで毎年毎年花を咲かせる。お前も何度でも花を咲かせろ」といわせている。これは戦前の軍国日本の「象徴」的な花である「桜」についての、非常に大胆な「読み替え」である。葉もつけない前に咲き乱れ、ぱっと散ってしまう桜、これを「いさぎよい死の象徴」とし、「自決」や「玉砕」を正当化する「美学」を作り上げてきたのが戦前の「大日本帝国」だ。その桜を「一度散っても、また何度も咲き誇る」花として、つまり「挫折してもあきらめない」ことの記号として読めというのである。なるほどそんな見方もあるのか、「八重の桜」とはそういう意味だったのか、と納得した。