10月31日朝日新聞オピニオン欄の小熊映二氏の論評について | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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 それまではいくつかの点で異論があるなあ、と小熊英二氏だが、3・11以後の小熊氏の発言には同感するところが多い。この10月31日付の朝日新聞にのったオピニオンもそう。
本当は原文を見てほしいのだけれど、これは朝日新聞デジタル版だから、会員でないと閲覧できない。なので簡単に主旨を説明(引用)しながら進めていく。
小熊氏はまず、「3・11以降、最も劇的に脱原発を進めた国はどこか」と問う。多くの人は「ドイツ」と答える、しかし、ドイツは確かに「政府が脱原発を宣言」した、しかし、ドイツでは未だに原発は稼働している。ついで、小熊氏はでは「政府は宣言していないが実質的に『脱原発』を実現した国はどこか」と問う。この答えももちろんはっきりしている。それは「いうまでもなく、この日本」である。
僕自身はこのことを関電の大飯原発が停止し、日本中でただの一基も原発が動かなくなってしまった時からブログなどで指摘してきた。この状態がいかに画期的であり、日本社会の、いや全世界のエネルギー産業に与える影響が極めて大きな「壮大な社会実験」であるかを僕なりに感じていたからだ。だが、こうした考え方を発信する人はあまり多くなかった。というかほとんどいなかった。
 もちろん、国内の原発が「稼働ゼロ」になったときにはたくさんの人が発言したし、今も記事にはなっている。ただし、そうい発言・記事にはかならず「だが」という留保がついている。稼働推進派は「だが、国内のエネルギー供給は危機的状況にあり、早期の再稼働が必要だ」といい、反対派は「だが、『脱原発」の筋道は不透明。政府は再稼働条件づくりを目指している」というように。つまり、賛成にしろ反対にしろ、声高に主張している人の多くは今のような「実質的脱原発状態」は長続きするものではないと思っている。そして見通しとしてはいずれ「再稼働」すると思っている点で結論を共有している。小熊氏が言いたいのはそういう見方をする人は「民意の力」を軽視しているのだということだ。
「この状況を作ったのは誰か。政治家がリーダーシップをとったのか。賢明な官僚が立案したのか。財界やマスコミの誘導か。アメリカの「外圧」か。いずれでもない。答えはただ一つ、「原発反対の民意が強いから」だ。それ以外に何かあるというなら、ぜひ挙げてみてほしい。」「民意は脱原発を望み、政官財の抵抗を押し切り、実質的な脱原発を実現しつつある。この明白かつ平凡な事実を認識できない人々、というより認めたがらない人々がいる」
このように切り出した小熊氏は昨年の総選挙結果でも自民党は2009年の大敗以来比例得票数を回復していないこと、しかも自民党支持者の7割が「脱原発」であることなどをあげながら、「民意は次第に弱まっていく」という「再稼働容認論」に反論している。
 さて、小熊氏が上の引用の後、「認めたがらない人々」としてあげているのはあくまでも「推進派」の人たちである。しかし僕は、小熊氏が今なぜこのような論説を書いているのかを考えてしまう。彼が自ら言っているように、今日本で原発が一基も稼働していないことは「明確」で「平凡」なことである。その「平凡な事実」をなぜ今指摘したくなったのか、彼はもちろん、「民意の力が現実社会を変えている、そのことに気付いてほしいからだ」というであろう。しかし、彼がそのことの意義に気付いてほしいと思っている対象は、決して原発推進派ではないだろう。どう読んでもこれは、「脱原発」を掲げる人たちに対するもの、とりわけ「政治のプロ」あるいは「運動のプロ」と呼ばれる人たちへの提言としか考えられない。
「『日本には優秀なリーダーはいないが、民衆の実行力はすごい』というのは高度成長期から一貫した日本評価である。」「政官財の抵抗を押し切り、脱原発を実質的に実現しつつある震災後の日本は、こうした評価がよくあてはまる。あとは政治家が、この明白な趨勢を認識し、応えられるかの問題だ」
という結論部分を見ても、それはあきらかであろうと僕は思う。
 こんなことをいうと、真剣に脱原発を実現しようとしているひとには怒られるかもしれない。それはあまりにも楽観論だ、現に安倍政権は「再稼働」と「原発推進」のための布石を次々と打っているではないか、その危険性を認識し、指摘し、告発することこそが必要なのだ。「民意に逆行する政治」の危険性こそ注目すべきであり、あなたの言うような「民意」もそんな「啓蒙」と「宣伝」の中でこそ初めて生まれたのだから、と。
あるいはまた日々汚染水を垂れ流し、「廃炉」への道筋どころか次の巨大地震、台風、水害などによってさえも深刻な被害をもたらしかねない福島原発の現状から、批判する人もいるだろう。そんな「民意による実質的な脱原発状態」などという現状への肯定的評価は、事故と汚染の深刻さを知らないから言える、1日も早い「政府による脱原発宣言」によって抜本的な対策をとらせることが必要であり、現状が危機的であることを伝えることが何よりも最優先する、と。
 もっともなことだと僕も思う。確かに小熊氏の言い方の中にはそうした切実な危機感や現実に福島で起きている問題をいわば「ろ過」したような感じ、「大局的」にものを見る時につきものの「客観的な感じ」がどうしてもつきまとっている。嫌味なまとめ方をすれば、小熊氏の(それに同感している僕のような人間の)言っていることは「いろいろ満足できないことはあるかもしれないが、世の中だんだんよくなっている」というようなものだ。別に現状でよいと思っているわけではないが、右を見ても左を見ても「危機」と「危険」しかない、カタストロフ一歩前であるというような考え方とは一線を画す。その意味では「条件付き現状肯定論」であるといってもよい。だから、上のような考え方で真剣に「脱原発」を訴えている人にとって見ると肩すかしというか、皮肉を言われているような気がするのだと思う。
しかしである、安倍政権がいかに「再稼働」と原発政策の再開を進めようとしても、二年にわたって日本国内では原発がない状態で生活ができているという現実は動かし難いものだ。それを否定するエネルギーは相当なものである。そのエネルギーを政府というか自民党=安倍政権はどこから調達できるだろうか。東電は実質「不良債権企業」である。しかも福島原発の汚染問題はそんな簡単に解決できるものではない。原発が原発がメルトダウンを起こすとどんな危険が生じるのかを日々実証している「サンプル」のような存在である。たとえ「国家秘密法」を通過させたとしても、法律が放射能を遮断するわけではない。原発の内部状況は隠せても汚染状況を全部隠すことは不可能である。
 しかも、われわれはそうやって一方で原発の危険性を目にしながら、日々の生活の中で「原発のないくらし」のために電気を消したり、余分な冷暖房を止めたりしているのである。公共施設の照明は暗くなり、コンビニやスーパーも照明を減らすことが当然になった。いくら「オリンピック」だ「アベノミクス」だと政財界が触れまわっても、それだけで電力需要を右肩上がりにするにはこれまた相当な「努力」がいる。電力関係のテレビのCMも「自然エネルギーもの」がほとんどを占めるようになった。かつては原発関連が占めていたような時間帯もである。これは業界が変わったのではないだろう。「世論」という、たしかに曖昧なものがそれを許さなくなったのである。「空気」というものになにより敏感なTVだからこそ、「脱原発」の「民意」が読みこまれたのである、と僕は思う。
人気だった朝ドラ「あまちゃん」の最終週近くで、僕が一番印象に残ったナレーションに「みんな震災前にどんなことを考え、何で笑っていたのかを忘れてしまったんだ」というくだりがあった。これはどちらかといえば否定的な意味合いで使われているのだが、逆のこともまた言える。
あの震災を挟んで、僕らの周りではなんといろんな価値の転換が起こったことだろう。あんなに「人のきずな」の大切さを身にしみるようになると誰が思っただろう。東北という地方がもたらしてくれた恵み、意味、失って初めてわかった福島の自然の価値、あまりにも肥大化し過ぎていた東京という都市の限界、etcetc。もちろん、それまで問題提起をしていた人はいた。しかし、その声に応えたのは本当に「一握り」の人たちだった。そして「脱原発」という主張はその筆頭格だったのだ。
 やっぱり世の中は変わったのである。変える力が働いたのである。震災前のことを「思い出す」なら、それは明らかだ、と僕は思う。僕はだから、小熊氏のような考え方に同感したいとおもう。否定的なこと、危機的な現実を忘れてはならないとは思う。思うけれども、やっぱり希望は持ちたいからだ。希望があるから、明日があるからこそ前を向く、そういう気持ちは自然なものだと思う。小泉元総理の「脱原発宣言」についてもいろんな憶測が飛んでいる。機を見るのに敏な小泉氏のことである、いろんな計算も思惑もあるだろう。でも、その言動のすべてを「陰謀」みたいに語ることを僕はしたいとは思わない。
自民党のトップを務めた人間だって考え方を変えることはありうる。なぜなら、社会が変わるということは結局は人間が変わるということであり、人間が変わる可能性を認めないで社会を変えようとするのは論理矛盾だと思うからである。変わらない現実を忘れないことは重要だ。でもそのことによって「人は変わるし、社会も変わる」ことを忘れることはしたくないのである。