復興庁職員の「暴言」つぶやきについて | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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ここ2~3日マスコミで話題になっている復興庁幹部職員のツイッター上での「暴言」。この人物、復興庁の前には船橋市の副市長(昔でいえば助役)として出向し、去年から復興庁にもどってきたらしい。震災の時には帰宅困難者のためにビルを開放させるなど結構「やり手」だったということで、その辺の手腕を買われての「現地担当」人事だったみたいだ。
そういう人物が、この程度の言っていいこと(言いかたも含め)とそうでないことの区別もつかないところに、今の日本の官僚機構の機能不全が現われているようにおもう。
もちろん、人間たとえ仕事であろうと罵倒されれば腹も立つし、すべての被災者が「善人」だともいえない。いや、今の被災者の置かれている状況を考えれば、相当な「善人」であっても国の職員とみればかみつきたくなるのも道理だ。そんな被災者と無理難題を云うばかりの国会議員に無責任な上司に取り囲まれていて、感情的になるな「怒るな」というのは無理な話ではある。
しかし、それはその感情をこんな風に外部に垂れ流してもいいということではない。今の世の中、どうもこの種の発言を「本音」だと称して肯定的にとらえようとする向きがある。だから、今回の発言も「本音をもらしたのがまずかった」という感じで受け取られているふしがある。
僕はそれは間違った見方だと思う。
「本音」とはもちろん「建前」に対応する言葉である。だが、この両者はそれぞれ、ある問題について、別の価値基準から考えられた二つの答えのことである。「公務員」という公の立場で、ある組織を代表してものを言うのが「建前」であるとすれば、そうした立場を離れた「一個人」=私人としても見解が「本音」である場合もあれば、「市民」とか他省庁という「外」に向かって話す「建前」と組織の内情を知っている人間として本当は言いたいが云うわけにはいかない「本音」がある、というように、である。いずれにしてもそれは、自分たちの言動をある程度自己反省した時に生まれる複数の「結論」をいうのであり、この職員の暴言のようなただの感情の露出ではない。
むしろ僕は、この問題は様々な交渉事において、「建前」と「本音」を使い分けることができず、単に「本音」をぶつけあうしかなくなっている今の社会の病理の表れだと思う。
彼がツイッターで使った言葉に「被弾」というものがある。これは被災者や議員などから云われた「文句」「批判」「罵倒」をさしているようだが、それを「被弾」と表現する中に見られるのは、「被害者意識」である。「撃たれてしまった」というこの言葉の中に「自分はわるくないのに何で………」という感情が見える。逆に言えば、自己への反省意識が乏しい。さらにいえば、「文句」や「批判」はもとより「罵倒」している人間でも、実はそれが「建前」としての態度であり、本当は別のところに「本音」があるかもしれない、という発想の奥深さがない。だから、そうした反省回路を切り捨てるためにも、「左翼の……」という聞くに堪えない暴言が生まれるように思う。
「建前」と「本音」の使い分けは日本人のネゴシエーションの悪しき典型として随分叩かれてきた。この使い分けがなくならない限り、日本は「世界標準」に達しないがごとくも云われてきた。ところが国家外交の世界ではこんな「使い分け」は当たり前である。「戦争だ」「核武装だ」といきまいておいて「食料援助」をもとめるかの国はもとより、その同盟国もあるいはアメリカも、表面的な「声明」や「記者会見」以外のところに「本当の意味」が隠されている。企業でも個人でも、実はあまり変わらない。
変わっているところがあるとすれば、日本では「面従腹背」=つまり、表面的にはいいようなことを云ったり、寛容な態度をとりながら、実際は「ノー」と言うのに対して、諸外国では「オール オア ナッシング」的態度で出発しながら、妥協点を探るほうが多いいうことだろう。ところがこの「最初に強気に出る」というやり方をアメリカかぶれの「グローバリスト」がやたらとほめるもんだから、日本でもまずは「強気に出て弱みを見せない」ことが「タフネゴシエイター」だとされてしまった。
しかし、このやり方はこれまでの日本的交渉の伝統を感情的にぶちこわす。だから、当然相手も居丈高になり、感情でものを言う、あるいは「建前として怒る」。従ってお互い言いっぱなし、やりあいっぱなしということで終わってしまう。互いが相手の非をなじり、自分の正当性「のみ」を云い募る。リスペクトの態度がそこにはないのである。
「交渉」というものはその社会の慣習によっていろいろなやり方がある。日本の伝統的な方法がすべてではないだろうが、あらゆる事態を想定した電話帳のような契約書をとりかわすアメリカ式がベストであるわけではない。にもかかわらず、早急かつ意図的に伝統を「革新」しようとすることによって、物事を一面化し、「交渉」が「交渉」でなくなってしまうのは愚かなことだ。なぜなら「交渉」では「論理的妥当性」が「力」を上回るときがある。人間の「知恵」が「暴力」に勝る瞬間があるのである。それを放棄していくような今の社会のありようには不安を禁じ得ない。