『グノーシスー古代キリスト教の〈異端思想〉』によると、僕のようにキリスト教グノーシス主義を、何らかの反体制運動とか勢力と結びつけて考える人はやはりいるようで、そうした研究があることを紹介している。だが、同時に筒井はそれを批判もしている。いわく、グノーシス主義者が当時、反体制的な「運動」なり「勢力」と結びついていたりした事実はない。また、「現世否定」のグノーシス主義者が通常のキリスト教徒よりもより多くの殉教者を出したという記録はない、と。彼らはキリスト教会から破門されたりはしていてもローマなどで普通に生活している。また当時のローマは極めて平和で、反体制的社会運動が存在したりはしていないのだ、とも言っている。
筒井が批判するのもわからないではない。彼の問題意識は「グノーシス主義」を歴史の文脈の中で解明することだ。だから、「反体制運動」であれなんであれ、「グノーシス主義を現代に生かす」と称して歴史貫通的に「グノーシス主義」なるものあるいは「グノーシス的考え方」が存在すると言い始めると「キリスト教の異端としてのグノーシス主義」とは何だったのかがかえって見えなくなってしまう。筒井はそれを恐れているのである。
面白いことに僕が同時に買った講談社学術文庫の『グノーシスの神話』の著者=大貫隆は、まさにそのような立場に立っている。
最初の方で紹介したが、彼の主張はグノーシス主義とは「絶対的人間中心主義」で「人間即神」の「絶対的人間中心主義」であるという。それが最初はよくわからなかったのだが、結局それはカールマルクスがヘーゲル哲学を批判した構図と同じで、「神」とはすなわち「我々人間」の自己意識のことである、ということのようだ。
マーニーの「善悪二元論」は、我々人間が抱く「善と悪」についての考えの反映、プトレマイオスによる「プレーローマからのソフィアの転落」は「知的好奇心や性的欲望」についての言及、ということである。そして、その角度から見た時「グノーシスの神話」は我々にヒントを与えてくれるというわけだ。
大貫はこんな調子で1970年代に先進国で広まった「ニューエイジ運動」あるいは「チャネリング」などにグノーシスの影響を認め、さらには宮台真司のレポートをもとに「援助交際をする高校生」もまた、自分たちは「汚れているが世界を受容していない、つまりイノセントである」と自称していることを「現代におけるグノーシス主義の影響」として限定的ではあれ賛意を表明している。一応この女子高生の話そのものは「楽天的すぎる」と言って批判しているのだが。
いちいち、それらの主張に口を挟むつもりはないのだが、ただこれらの主張を読んでいると、どうやら大貫は伝統的なキリスト教的価値観を「西洋近代主義」になぞらえ、その限界が顕になった「ポストモダン」の現代において、グノーシス主義は近代主義を超える何物かをもたらしてくれると考えているようだ。ただし、グノーシス主義には弱点がある。大貫が考える弱点とは、その徹底した現世否定であり「人間即神」の「絶対的人間中心主義」のグノーシス主義は、「自分だけが問題で、他の世界のことなど滅びようがどうなろうが知らない」という「独我論」だという。
だが、僕に言わせると、グノーシスの「現世否定論」を「独我論」などという「実存論レベル」で論じることは、あまりにも彼らの「現世否定」を軽くみすぎている。翻って、大貫的な立場に反対する筒井の方を見ても、筒井は、グノーシスの極端な「現世否定」=「世界そのものの否定」に等しい神話構造の持つ「意味」をーーあまりにも荒唐無稽であるが故にーーどこかで軽んじているように思える。一言で言うと、両者ともグノーシスの神話の成立の前提になった「現実世界」への幻滅の深さ、「現実」が「牢獄」のようであるという疎外感を理解していない。
ローマ帝国「周縁」の思想としてのグノーシス
なるほど、確かにグノーシス主義が流布されていった1世紀後半から2世紀半ばは、ローマ帝国が最も繁栄しその支配を最大に拡げた時期にあたる。「全ての道はローマに続く」と言われたようなインフラ整備が整ったのはこの時代で、それを「パックスロマーナ」=「ローマの平和」と政治学、歴史学者は呼ぶ。
しかし、このように帝国内に「平和」がやってきたからといって征服された諸地域、共同体の中に帝国支配層への不満や反発がなかったとはとても考えられない。
例えば、キリスト教やグノーシスにとって一番近いところでいうと、紀元後66年には「ユダヤ戦争」が起きている。これは4年間ほど続きユダヤの完全な敗北に終わる。そしてこれ以降ユダヤ人は「祖国」を持たない「ディアスポラ」の状態に、第二次大戦後のイスラエル建国まで、実に1900年近く置かれる。キリスト教がユダヤ教から完全に別れたのはこれ以降だという。ネロによるキリスト教徒の迫害はユダヤ戦争の直前である。「パックスロマーナの時代」はこれらユダヤ人やキリスト教徒の抵抗の記憶が生々しい時代でもあったのだ。
20世紀から今の我々が生きている時代は、よく似ている。第二次大戦後、アメリカ合衆国が世界を主導し「世界平和」を作り上げた時代として20世紀の後半は「パックスアメリカーナ」と呼ばれた。この時代は確かに「平和」であり、経済と交通のグローバル化は進み、アメリカを中心にした世界のつながりはかつてなく深まった。その状態は制度疲労を起こしているとは大きく言えば今なお維持されている。
では、この現代において、我々は「パックスアメリカーナ」に何の疑問も持っていないのか。反発したり否定したりする人々、政治家、思想家はいなかったのか、その秩序を是としない勢力はいなかったのか。答えは全部否だろう。
そういうことから言っても、グノーシス主義がローマ帝国に内部での「非正統的なもの」「非主流的なもの」の存在に依拠し、ある程度の支持を得てきたであろうことは容易に推測できる。もちろん、そのような「事実」についての証拠はない。グノーシス主義者が自らの教えを語った文書さえ、1945年にエジプトのナグ・ハマディというところで古文書が発見されるまで存在しなかった。それ以前の研究者はグノーシス主義者の主張をそれに反駁するキリスト教者の文章から見つけ出すしかなかったのだから。
しかし、キリスト教側からの反駁がされているということは、反駁する必要があるほど、信徒がいたということでもある。
『一神教の誕生』で著者加藤隆は、ローマ帝国成立後の社会は「コスモポリタニズム」の状態にあり、帝国内における少数派、非主流派の民族や共同体は時間の流れと共にそのアイディンティティを失い、多くの民族が「滅んで」いったことを指摘する。その中で、だがユダヤ人はユダヤ教への信仰によって共同性を維持していたことを強調する。このユダヤ人の信仰のあり方を、他のローマ帝国内部の「非ローマ人」「被征服民族」が応用しようとしたことは大いにありうる。しかも彼らの前には「キリスト教」という万人を対象にした一神教がある。
問題は、「一神教」においては常に「唯一の正しい神しかいないのに、どうして世の中には悪と誤りが存在するのか」という疑問が生じるということだ。ユダヤ教は「罪」という概念を軸に1000年以上の経験によって乗り越えたが、その歴史のない人々にとってはそれだけでは済まなかった。そこで結局のところ「至高神」と「造物主」を分けて、この現実世界は「不完全な神」あるいは「悪魔」を材料して出来上がったことになったのではないか。
その場合、「現実世界」とは端的に言って「ローマ帝国的現実」である。マーニー教の場合であれば「ペルシャ帝国的」となるだろう。そこに価値はない。価値があるのはグノーシス=「叡智」によってのみ捉えられる「非物質的」な「至高神」と一体化することだ。このような極端な理想主義によって、自分たちの新しいアイディンティティを作ること、それがグノーシス主義の出発点ではなかっただろうか。
「啓蒙的理性」の鬼子として
その意味では、確かにグノーシスの神話は「自己言及」の神話だということができる。違うのはそれが「わたし個人」についての言及ではないことだ。それは最初から「われわれの物語」である。
「われわれ」は「悪しきローマ的現実」にいる、祖先から受け継いでいたはずの共同性を失い、肉体も感情も欲望もすべてそこに囚われている、しかし、唯一「叡智」=理性において我々は自らが「そうでない世界」があることを知っている。世界の全ても己れの肉体も全ては「かりそめ」のものであり、本来の自分の「帰るべき場所」では形而上学的な「天」にのみある、超越的世界にあることを知っている。このような発想はローマ帝国内部における「非正統的」で「非主流的」な集団、ポストモダン的にいうと「周縁の人々」にとってもアイデンティティになり得たのではないだろうか。
再三紹介しているアウグスティヌスは4世紀の人である。つまり、グノーシス主義が最初に隆盛の時を迎えてからおよそ200年経っている。その頃までマーニー教は残っていたことになる。それは彼が北アフリカーーアルジェリアの出身であることと無関係ではないだろう。もちろん、当時の北アフリカはローマ帝国の内部にあり、ローマへ穀物などを供給する地域である。だが、その地域の帝国への編入は極めて遅い。ローマ帝国がこれら占領地の人々に「平等な市民の権利」を保証するのは3世紀のカラカラ帝の時代である。そのような動きの背後には、やはり、占領地におけるさまざまな抵抗や反発があったことは想像に難くない。
だから、僕は大貫のいうような「人間についての言及」としてグノーシス主義を受け取り、その時代を超えた意味を考えるということ自体には賛成である。しかし、それはグノーシス主義がポジティブに何かを与えてくれるからではない。反対である。グノーシスは確かに「周縁的な人々」の自己主張であり、その疎外感の表明であるが、「失敗し」「敗北した」思想であると思う。
そもそもグノーシス主義は世の中の主流にはなり得ない。なぜなら、グノーシス主義の神話による限り、どんな経緯をたどろうが、結局この現実世界は破滅するのである。信奉する自分たちは確かに「救済される」。しかし、それは「魂」のみであって、肉体は滅びる。つまり、現実には誰も「救わない」のである。
つまり、このグノーシス主義の考え方というのは、大貫のいうような「神話を通じた人間の自己言及」という図式から考えれば、「理想主義者」がその「挫折」の末に「現実世界」に発した「呪い」のようなものである。「理想」に燃えて「現実世界」を変えようとした人間が挫折をし、「理想」が「現実」を変えられなかったのは「理想」(とそれを掲げた自分)のせいではない、「現実」が「理想」を受け入れなかったからである、故に責任は「理想」を掲げた「自分」ではなく「現実」に方にある、もともとこの「現実」は自分の「理想」とは無縁な、相容れない存在なのだ、という言及が実はそこにある。
言い方を変えればグノーシス主義は「啓蒙的理性」の「純粋化」のさきに、まさにその「理性」だけを物神崇拝するに至った思想であり、プラトンの言う「イデア論」の鬼子のようなものとも言える。実際、プトレマイオスらのグノーシス主義と「新プラトン主義」は深い関係にあるという。
ただし、プラトンとは違い、グノーシスには「殉教の歴史」がある。キリスト教グノーシス主義者は本人たちはともあれ、その背景にイエスに始まる殉教の歴史がある。マーニー教の教祖マーニー・ハイイェーもゾロアスター教神官たちの告発で晩年に牢獄に幽閉され、そこで死を迎えた。
グノーシス主義の神話は確かに荒唐無稽であるが、その信仰のために命をかけた人たちの存在は現実である。その「死」は実は救済であり、信仰を貫いたものは彼らだけが行くことのできる「至高神の世界」に到達できると説いたら、どうなるのか。
そんな主張をわれわれは実証的に否定することができない。なぜなら、われわれは「魂」とはなんであり、どこにどうやって存在するのかを知らない。この先AIやクローン技術の研究が進み、「人間」に匹敵するAIとか、クローン人間ができればもう少しわかるかもしれないが、それでも「死後の世界」は決して経験できない。従って「死後魂はどうなるのかどこに行くのか」を経験的に論じることはできないだろう。にもかかわらず、我々人間はそれ「について考える」ことを止めることができない生き物である。そのことは本屋にでもいって見ればわかる。どれほど「死について」書いてある本が並んでいることか。
「周縁であるという」思い込みが「現代のグノーシス主義」を産む
このような見方をすると、確かにグノーシス主義は現代にまで延々と生き残っていると言えるだろう。
ただし、21世紀の現代においてそれは「周縁の人」の自己主張としてではない。現代は「周縁」が「中心」となる時代である。地理的な意味での周縁、あるいはそれぞれの国の内部での「周縁」、LGTBQに代表される文化的意味での「周縁」が、「中心」と同じであることを求め、それを認めさせていくそのような時代だ。
むしろグノーシス主義的なものはもともとは「中心」にいたはずが、いつに間にか「周縁」に追いやられていった人、あるいはそう「思い込んでいる人々」の間でである。コロナ禍で俄に注目された数々の陰謀論は、この「周縁に追いやられたと思い込んでいる人々」のものだ。彼らが語る「闇の政府」とかあるいはIT長者がコロナウィルスをばら撒いたという発想は、グノーシス主義のパロディとして考えると大変わかりやすい。トランプを支持し、トランプの勝利を疑わない人々もまた、アメリカ社会において文字通り「いつのまにか周縁に追いやられたと思い込んでいる人々」である。
そして、この長い長い僕の文章の出発点であった統一教会もこの部類に入る。統一教会の存在は教祖文鮮明が同時に始めた「国際勝共連合」の活動と一体であり、彼らにとっての「サタン」は「共産主義」である。これは、第二次大戦後の1950年代に始まったのだが、まさのその時代、ユーラシア大陸はヨーロッパに西欧を残して「共産主義」によって「占領」されている。東アジアで大陸に残された資本主義陣営は「大韓民国」だけである。「反共」とキリスト教の装いをもった宗教の体裁はこのような視覚から考えると、納得できる面がある。
「啓蒙的理性」は確かにこの世の矛盾を暴き、「かくあるべし」とその改革を呼びかけ、人々の覚醒を促す。そのことによって社会的現実が改善されることはもちろん数多い。しかし、同時に「啓蒙的理性」は決して現実に満足することはない。「理性」とその産物である「理想」にとり、現実は常に「不十分」であるか「間違っている」のかのどちらかだ。そうした「善と悪」あるいは「理想と現実」の二元論を無自覚な場合、啓蒙的理性は自らがグノーシス的なものになったり、あるいは、「かくあるべし」という「価値の強制」によって、それに反発する「周縁と見做されてしまった人々」の内部にグノーシス的なものを作り出す。
「ポストモダン」ということが言われてから、一体どのくらいの年月が経ったのかはわからない。だが、西洋的近代が作り出した原理原則の妥当性が疑われるようになって以来「啓蒙的理性」は常にその存在の妥当性を問われている。現代はそれゆえ、「啓蒙的理性」はその絶対性を明らかに失っている。言ってみれば「啓蒙的理性」という「神」は、もはや「不完全な神」になってしまったのである。だからこそその「神」は容易に「悪魔」にもされるし、自らそうなってしまうこともありうる。僕がグノーシス主義というものにこだわって、こんなにも文章を書いてしまったのは、そのことに思いを致すからである。
「啓蒙的理性」が尊重されるべきであるのは、それが現実をより良いものに変え、人々にそれまでよりも幸福な状態を作り出す指針になったからである。つまり「理想」が「現実」を変えたからだ。もちろん、現実の何がどう変われば人々が「幸福」で「より良い」状態になるのか、それこそが多様であるから人間の社会は厄介だ。
若い時に読んだカールマルクスの本には、ヘーゲルら一時代前のドイツ哲学者を批判する「哲学者は世界を解釈した。だが、問題は世界を変革することだ」という言葉があった。その言葉に僕は大いに感激したものだった。だが、実際にこの言葉は、「理性的なものは現実的であり、現実的であるものが理性的である」というヘーゲルの考えと矛盾はしない。「現実を変革する哲学」とは、現実化できない「理想」を振り回したり、それを力づくで実現しようとするものではないからだ。マルクスが言いえたのは、ヘーゲルと違い、人間は「神の理性」の代理人ではない、ということにすぎない。
だが、この辺りに「啓蒙的理性」あるいは人間の「理性」一般の落ち着くべきところがあるように僕には思える。人間にはできるようなことをできるようにする以外、何か特別のことができる訳ではない。多くの答えは歴史の中にすでに存在している。歴史の流れの中で消えていったものには消えてしまうだけの理由があり、残ってきたものにはそれだけの理由がある。グノーシス主義は明らかに前者である。そこから得られるのはあくまでも「教訓的な負の遺産」であり、それ以外ではないように思う。とはいえ、彼らの成した問題提起はその後のローマ・カトリックなど正統派と呼ばれるキリスト教の流れの中に反映されてもいる。異端派の彼らがプラトン主義などの哲学思想を持ち込まなければ、そもそも「キリスト教神学」なんてものは存在しなかっただろう。
歴史というものは「繰り返す」ものだ。今の僕はそのように考えている。歴史は循環し、繰り返す。人類は繰り返し同じような問題に突き当たり、失敗したり乗り越えたりする。パックスロマーナの時代の異端思想がパックスアメリカーナの現代の蘇ることもだから、何も不思議ではない。それが不思議だったり、否定的だったりするのは、人類は有史以来絶えず「発展」し「進歩」してきたと考えるからであり、これまた「啓蒙的理性」の産物である。そのことについても、いずれ、何がしかのことを書くかもしれないが、ひとまず、このグノーシスに寄せた話はここで終わることにしたい。
