#548【Kiyomi_45】言葉が響くとき25 雑草のように | コトバあれこれ

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子ども作文教室、子ども国語教育学会の関係者による
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 梅雨入りの頃、「この夏は殺人的な暑さになる」という声が、テレビから聞こえてゾクッとした。近年、夏が怖くなっている。常勤の頃は、朝から夕方までエアコンのある室内に居たせいか、夏の怖さをそれほど感じなかった。いまや、梅雨の晴れ間さえ怖くなる。頭に照りつける日差しに鈍痛がする。風は生暖かく何とも不快である。かといって、外に出たい気持ちもある。早朝、両腕に日よけ手袋をはめ、帽子をかぶり、日傘を差しながら散歩に出かけてみた。

 

          ここにも露草あり

 

      

 

 自宅を出て、横断歩道を渡った先のマンションの生け垣に露草を見つけた。攪乱した雑草からはみ出し、小さな青と黄が目に留まる。スマホを出して「カシャ」。子どもの頃からこれほど見慣れた草もあるだろうか。花でありながら、大きな羽根をもつチョウのようでもあり、浴衣を着た少女の髪飾りのようでもある。その姿は月草(つきくさ・着草)として万葉集にも歌われているようだが、この名は、花びらの青色が衣に付きやすいことから来ているという。昼には萎んでしまう花なのに、蛍草とも呼ばれているのは何故だろう。暗いうちから咲くのでおしべの黄が蛍のように見えるのだろうか、あるいは、短い命の所以だろうか。

 

          なつかしの朝顔

 

 

 道を進むと、細い鉄柵から顔をのぞかせている朝顔がいた。シックな紫色が美しい。朝顔には、なつかしい思い出がある。植物好きの祖父が、実家の前の空き地に朝顔を咲かせたことがあった。空き地の草を刈り、道路沿いに竹を割って格子を作り、朝顔のつるを這わせていた。赤やピンク、青や紫の朝顔に、通学の子

どもたちや通勤の人々の目が吸い寄せられていく。雨上がりの朝には、数メートルのその空間だけ空気も澄んでいた。

 

           おお、カンナ

 

 

  国際交流センターの前に咲くカンナ。熱帯地方からやってきたカンナ。大きな葉っぱに大きな花。鮮やかな黄やオレンジ。風にひるがえるフレアースカートのよう。去年もここで見かけた記憶がある。カンナを見るや否や、いつも心のなかで叫んでしまう、「おお、カンナ」と。

 

          林立する雑草

 

 

 日傘の下から緑の軍団が現れた。林立する雑草。目を奪われて、しばし立ち止まる。オオアレチノギクだろうか。

 この一角には以前、5階建ての大きな建物があった。それが壊され空き地となり、雑草の繁茂を避けるためであろう、一面に灰色のシートが敷かれ、その上に多数のブロックが置かれた。今、そのシートのすきまから、オオアレチノギクがぐんぐんと伸びている。不思議なことに、オオアレチノギクだけが伸びている。所々、エノコログサやカヤツリグサもあるが、ほとんどがオオアレチノギクのようである。このシートの下はどうなっているのだろうか。芽を出した草も伸びることができず、地面とシートの間で潰れているのだろうか。あるいは、平たくなって横に生きのびているのだろうか。思いっきり、シートをめくってみたい気持ちに駆られる。

 

 

     雑草    北川冬彦

 

雑草が

あたり構はず

延び放題に延びでゐる。

この景色は胸のすく思ひだ、

人に踏まれたりしてゐたのが

いつの間にか

人の膝を没するほどに伸びてゐる。

ところによつては

人の姿さへ見失ふほど

深いところがある。

この景色は胸のすく思ひだ、

伸び蔓れるときは

どしどし延び拡がるがいい。

そして見栄えはしなくても

豊かな花をどっさり咲かせることだ。

 

    『現代日本詩人全集 第八巻』より

 

 

         太陽の子・向日葵

 

 

 衝撃の一角を過ぎると、右側には大学の敷地があり、左側には公園がある通りに出る。午後にもなれば、フィールドで部活動に励む大学生、公園で駆けずり回る小学生と、それぞれの声が弾けてくる。

 公園の入り口に大きな向日葵がいる。まるで太陽の子が地上にゆらりと下りたようである。「さくら公園」と名付けられたここは、春には桜が満開となり、子どもたちが集い、遊び、おしゃべりにその名を謳歌する。夏のいま、子どもの数は少ないが、授業が終わる頃には元気な声が聞こえてくる。次世代の空間であり、向日葵には公園がよく似合う。

 

         雑草のように生きる

 

 向日葵をスマホにおさめたら、早朝の光にまぶしさが増してきた。散歩も限界である。無理はいけない。そろそろ、お気に入りのカフェをめざそう。日傘のなかで、先程のオオアレチノギクがよみがえる。ふと、「雑草のように生きる」という言葉が下りてきた。耳慣れた言葉なのに、最早それしかないような気もする。

 しかし、雑草のように生きるには知恵が必要だ。教科書や入試でおなじみの植物学者の稲垣栄洋さんは、雑草には*「弱さからの戦略」があるという。露草が見慣れるほど咲き続けているのは、攪乱した雑草のなかで生きる知恵をつけたからであろう。オオアレチノギクも、耐えて生きのびた結果なのかもしれない。強さとも言えるしたたかな知恵である。自分のように、精神論で息まいているだけでは意味がない。

 夏はこれからが本番である。この夏を心身つつがなく乗り切るための作戦を、雑草に学びながらじっくりと練り上げてみることにした。

 

 

 *「弱さからの戦略」……『雑草はなぜそこに生えてい るのか 弱さからの戦略』稲垣栄洋著をご参照。他の植物との競争に弱い雑草の発芽戦略や生存戦略として、過酷な環境でも柔軟に対応しながら、ナンバー1になれるオンリー1の場所を見つけて生きる知恵と勇気。

 

                         Kiyomi