#0041 [Gootama-02]: 「書く」ことと情報技術 | コトバあれこれ

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子ども作文教室、子ども国語教育学会の関係者による
投稿記事ブログです。

言語活動の行動として、「話す、聞く、読む、書く」の4つがある。そのうち、「書く」
ことの機会は相対的に少ないものと思われる。日常的に行われる会話やラジオ・テレビ等の
影響もあって、どうしても「話す・聞く」が中心になる。学校教育の場でも、「話す、聞く、
読む」の比重が高く、「書く」ことにさかれる時間は少ないのではなかろうか!?「書く」
ことには、時間と手間がかかるためだろう。この状況を不等式で感覚的に表現してみると、

           話す & 聞く > 読む >> 書く

  それだけに、「書く」ことにより留意しなければならない。そもそも「書く」とは、どう
いうことで、何のためにあるのだろうか? それは、

 考えて、自分の考察や心情をまとめる。先ずは、自分のため。

 情報や自分の意図を適格に他人に伝えること。

であり、客観的或いは論理的な表現手段と言えるのではなかろうか。 これは、社会で、
そして仕事で要請されることである。

 

  ここで、書くことを効率化するために人々が考えた情報技術について触れてみたい。

 1800 年代の初期に英国で手動タイプライターが考案され、使われ始めた。ハンマー(鍵
盤)の先にアルファベットの活字がついており、これをローラーに巻き付けた紙にインク
リボンを介して打刻するものである。ビジネス上での通信文書の需要が高まってきた背景
があり、文書作成の高速化と清書化が図られた。我々の時代で言うと、
1961年に導入され
IBM セレクトリックという電動式タイプライターを覚えている方もおられるのではなか
ろうか。ゴルフボールのようなものの表面にアルファベット等が配列されている印字機構
であった。
1978年には、ボールではなく、デイジーホイールという印字機構のものも登場
した。英文の場合、アルファベットの大文字・小文字、数字、句読点等いくつかの記号が
あればよく、せいぜい
80 種類くらいの文字類が識別できればよい。ところが日本語の場合、
仮名漢字混ざり文で字数の多さから扱いが複雑・困難になり、和文タイプライターという
ものもあったが、あまり使われなかったようだ。

 

  日本語は、仮名漢字混ざり文になっており、しかも同音多義語多い。つまり、仮名にす
ると同じでも、漢字が違い意味も異なる。しかし、
1978 年に仮名漢字変換技術を使った
日本語ワードプロセッサーが登場して、この日本語固有の問題が克服された。これは、仮
名入力した言葉をソフトの辞書を使い漢字に変換して、それを漢字ドット・プリンターに
送り、印字するものである。(私も、この開発のほんの一部に関わった。) 私のように
字がへたくそで文章を書くのが嫌いだった者にとって、段々と書くことが楽になった。簡
単な書直し、コピー・ペースト、文書の保存など便利な機能に満ちている。まさに福音で
あった。仮名漢字変換技術は、その後標準的なワープロのアプリに取り入れられて、現在
も広く文書作成に使われている。 活字に替わって漢字への対応を容易にしたドット・プ
リンターも、当初ワイアーが使われていたが、今はインクジェットである。

   その後、1979 1981 頃に各社からパソコンが導入されて、電子メールが登場、文書の

  やりとりがパーソナルのレベルでも広く行われるようになった。更に、携帯電話、インタ
ーネットの利用、スマホの登場により、文章の作成とやり取りが、言わば大衆化してきた
と言える。しかし、ここで「書く」という観点で重大な変化が起きていることに注目しな
ければならない。それは、書き言葉の話し言葉化である。感じたまま、思ったまま書くこ
とが多い。絵文字の登場もある。主観的、感情的表現に傾きがちで、冒頭に述べた客観的、
論理的文章から離れてゆく傾向である。「書く」というより、「打つ」になったとも言え
る。ツイッターなどは、その典型であろう。このような携帯・スマホ的な「書く」の世界
の良し悪しは、いちがいには言えない。ここに存在する”軽快さや楽しさ“を否定できな
いだろう。ただ、これに傾き過ぎることは問題である。「書く」本来の意義を認識して、
特に教育の場では、それを強調しておくことが大切であると考える。いずれにしろ、情報
技術が「書く」こと、更には国語に与えた影響は大変大きい。今後、
AI の世界になるとど
うなるのだろうか?

    以上を踏まえて、コボちゃん作文の指導をみてみると、

・マンガの内容を客観的に伝える

・素材のストーリーにオチがあるので、考察が必要

・話し言葉を書き言葉へ変える

 などと、「書く」こと本来の意義に沿っており、その入門段階のものと言えるのではな

  かろうか。この後の段階としては、自分で論理が作れるような文章指導にもってゆくべきである。

  即ち、小論文といことになる。入学試験に記述式回答や小論文がより多く導入されると

  いうことで、時代の要請にもあっていよう

 

  最後に、「手書き」のことに触れてみたい。いったい、「手書き」は廃れたのか? 

“ノートを取る”というのは、多くの場合手書きであろう。「手書き」はマイノリティに

 なったかもしれないが、廃れた訳ではない。書道もあり、表現の多様性から芸術性へと

 高められる。ビジネス文書と違って、詩歌等の芸術文は「手書き」の世界と親近性があ

 るだろう。これはこれで、日本文化の大事な一環として守って欲しい。

 

 <参考文献> 

文中の技術革新が国語に与えた影響部分は、下記の文献の視点を参考にした。

 雑誌「日本語学---特集日本語150 年史」  2017 11月号 

       「国字政策と書くこと」 佐竹秀雄 及び「技術革新と日本語」 荻野綱男