「いいじゃないの幸せならば」 | 上からメセン

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写真日記が主ですが、ときどき、くだらない独り言を綴るブログです。



「いいじゃないの幸せならば」
佐良直美
1969年の日本レコード大賞に
選ばれた曲である。

1969年と言えば、
テレビ学問では、単純明解な
ホームドラマや(笑)
が好まれていた年である。

今の、なんか
小難しい、ドラマやら、
コントやらで
満ち満ちている

すっかり様変わりした、

そんな、平成テレビ学問に
一向に馴染めないまま、
50歳を
迎えつつある生きる僕に
とって、この曲は
極めて異質であるが、
なぜ異質か?

この唄の歌詞、

あの時あの子と別れた私…

というあの子とは、彼氏の事であるからだ。

ホームドラマではいい意味で
男尊女卑であったが、
あの子という表現は、
女尊男卑だ。

別に不快ではない。

ところで、
この曲を知ったのは、
思春期真っ只中
の中学生であったが
同級生のオンナの威張りっぷりと、
傲慢さを目の当たりにし、

ひどく共感した事を
昨日のように思い出す。

作詞を担当した岩谷時子さんは、
やっぱ、この1969年の
変な貞操観念や、男尊女卑、
オンナの立場って何?とか、いろいろ
疑問符を投げかけてたのであろう。

僕の親父は、この
「いいじゃないの幸せならば」
を、酷く嫌っていたが、
僕は好きである。

女性も、生きるために、
開運のために、
必死なのであるから。

親父とは別に仲が悪いわけでは、
ないが、
親父は、今日紹介する
この曲よりも、
同じ佐良直美が唄った、
かつて、
結婚披露宴にての定番であった

「世界は二人のために」の
方が断然好きだという
ナツメロ話を
父息子(おやこ)で
語った事を、思い出した。

なんでか?
一昨日、TBSの爆報にて、
佐良直美が久しぶりに
テレビに出たからである。

どことなく、
平成のコは知らないで
あろうが、18歳で自殺した
岡田有希子と同じような
顔の造りを
していた佐良直美は、

74歳という年齢に
相応しいというか、
全然、昔の面影は、
声を除いては、変貌を
遂げていた事が、藤原紀香だと
思ったのに、化粧を落としてきた
元カノのすっぴんを見て、
愕然としたと、ドウヨウ、

モノスゴク、
驚きだったので、
今回、こんな駄文を
作成するキッカケになった次第である。

ちなみに岩谷時子さんは、
こんな小難しい歌詞だけではなく、

加山雄三の
「君といつまでも」など、
単純明解な、平和な
歌詞も作成しており、
その才能に感服したものであるが、
2013年、鬼籍に入る。

 筆者は
長年、朴念仁であり、
なかなかナマの女性と
コミュニケーションを
取れない種族であった。

今でもそうであるが…。

だが、そんな、自分を、
どこがかは、オンナゴコロは、
分からないが、好きと言ってくれた
女性(ひと)もいて、

常にオンナからの
告白という受け身、中途半端な恋というには、
面映ゆい、どちらかといえば遊戯のほうが
相応しい…を、
第三者から見れば彼氏彼女、
相思相愛とやらを、
(面映ゆい)
人並みに経験したが、

結婚しなくてよかったなあ
と、ココロの底から、
思ってる。

そこが、親父との
佐良直美という歌手の
好みの曲の違いでもあるし、

オンナという種族は、
つくづく、不気味であるし、
恐ろしい。

去年の10月から勤めてる会社は、
オトコよりも、オンナが
多い環境であるし、
なんで、あんなに
屈託もなくいつまでも
ゲラゲラ笑って
いられるのだろうか?が、
極めて不気味ですらある。

ちなみに親父は職場恋愛で、
母と出会い、そして、
僕と言う厄介な粗大ゴミを
この世に抽出してしまった。

が、親には感謝している。

今日はアパートに両親が
来て、恵方巻きを、その他、
食べきれない食物を
持ってきてくれた。

2019年。
初詣も一緒に行って、
御神籤は大吉だったし、

豆まきはさすがに、
アパートで、無駄に
掃除する手間がかかるので、
しなかったが、

東北東方向に向けて、
フェラチオをする事が出来たのである。

いいじゃないの幸せならば…