最近は次男の二分脊椎のことが多かったので。

久々、祖母のことを書きます。

私の祖母は認知症でした。ちょうど介護保険制度が始まったとき。

初回審査で要介護度5が認定されましたアセアセ

認知症以前から耳が聴こえず、おまけに田舎の人間なので、方言が強く、何を喋っているか全くわからない…滝汗


認知症バリバリでしたが、身体は元気だったので、徘徊のオンパレードでしたゲッソリただ、幸いだったのか?見た目&言動がかなり普通と違う、認知症バリバリだったため、すぐに周りの人が気付いて通報されてましたショックもう、20年ほど前ですが、本当に地域の皆様、ご迷惑をお掛けしました…アセアセ


なので、見た目認知症とわからない人が徘徊される場合はなかなか、発見が大変だろうなあと思いました。


そんな祖母が、脳梗塞で倒れ、寝たきりになりました。私の母は、そこから数年間、ずーっと在宅で祖母の介護にあたっていました。


訪問看護、訪問入浴、たまにショートステイなどの力を借りながら。

食事は食介必要、食事形態はきざみ、排泄はオムツ、適宜体位交換。夜中も起きて、してました。


母は嫁の立場でしたが、それはもう献身的に。
父と喧嘩しても介護は投げ出さず。

何で?と私が聞くと、「だっておばあちゃんとお父さんは親子だけど、別人格だから。ここで与えられた介護は私の人生の試練なのかなって思ってる。だから投げ出さないよ。」と。


そういった考えが、当時20歳過ぎの私にはわかりませんでした。

「毎日世話してるとおばあちゃん、かわいいよー。」と滝汗


お母さん、強い…!!


でも確かにおばあちゃんの、母を見る目は、赤ちゃんがお母さんを見る目そのものでした。
認知症になっても、自分の世話を懸命にしてくれる人、わかるんですね。


そして、2年ほど経過した日、祖母は熱を出し、肺炎が発覚しました。


誤嚥性肺炎でした。


今思えば、きざみ食ばっかりだったもんなあアセアセ
とろみついてなかったし、嚥下機能が落ちるなか、バラバラの食材が気管の中に蓄積され、不顕性の誤嚥性肺炎を引き起こしたのだと思います。


そして入院。点滴が開始されましたが、投与量が多かったのか、肺に水が溜まっていますとなり…。

最期は病院で亡くなりました。


入院する前、救急搬送されたのですが、そのとき、祖母が母に、

「◯◯ちゃん(母の名前)、すまんのぅ…。」と言いました。


母は、泣きながら、

「すまんことない!こっちこそ、早く気付いてあげれなくてごめん!」


と言っていたのを覚えています。


祖母はその時、認知症も酷く(元々酷かったですが)、当初から母を労う発言なんて1度もなかったのですが、何故かこの時だけこのような発言があったこと、ホントに不思議だったねーと、母とも話しています。


そして、話は病院に戻り、亡くなった祖母に対し、私や姉でメイク大会💄キラキラキラキラ
元々目元ぱっちり、小顔だったので、かわいく仕上がりましたグラサンハート

その後、葬儀屋に行き、お通夜やお葬式を済ませて、長きに渡った介護生活は幕を閉じました。


家族揃って近くの居酒屋に行ったとき、
「こうやって皆で居酒屋とか外食って何年ぶりだろね〜。不思議やね〜。」

って、なったのを覚えています。


そして介護を終えた母は、仕事をしようと職探しをすると、超ご近所に老人ホームオープニングの求人がびっくり

これも縁なんでしょうか。すぐさま応募し、勤務開始、今では勤続18年くらい?頑張ってますニコニコ


祖母の話だか、母の話だかわからない感じですが、母の姿は私の憧れでもあります。


怖いですけどね笑い泣き子どもの世話とか、安易に頼ろうとしても、断られます笑

基本仕事の飲み会で、子どもを母に預けるは100%断られますえーんでも、PTA関連の会議とかならOK。みたいな感じです。厳しい!

普段厳しいですが、いざ困ったときは、フルサポートな母。
次男の二分脊椎が発覚したときは、私の入院中、近くにある、デンボの神様で有名な神社でお百度参りもしてくれていて。
二分脊椎はデンボ(腫れ物)なのか…??タラーと思いましたが、母の思いに感謝グラサンキラキラ

私は母に似ず、まだまだ甘ちゃんな部分が多いので、頑張っていこうと思います滝汗