桃田賢斗選手、日本代表引退記者会見「しんどいことだらけだったけど、充実した代表人生だった」 | ☆Precious Days☆

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桃田賢斗が4月27日から開催されるトマス杯を最後に、日本代表活動から

引退することを発表した。4月18日、「自分の口から感謝の気持ちを

伝えたい」という桃田自身の希望により、あいさつの場となる記者会見を

実施。会見には、NTT東日本の川前直樹監督が同席した。 

 

以下は、記者会見での質疑応答。 

 

――日本代表を引退した理由と、そのきっかけ 

 

2020年1月の交通事故から苦しいこともたくさんありましたし、自分なりに

試行錯誤はやってきたつもりではいたんですけど、自分の中で思うような

プレーができなかったり、気持ちと身体のギャップが続いていく中で、

このまま、また世界一をめざそうというところまでいけないなと判断した

ところと、まだ自分が動けるうちに、ジュニアの選手やバドミントンを

している人たちともっともっと羽根を打つ時間がほしいなと思って、代表を

引退しようと決意しました。 

 

――2014年に初めて日本代表になって、そこから代表として戦い続けてきた。

振り返って、感じることは 

 

代表に選んでいただいていただいてから約10年間、ほとんどがしんどい

ことだらけでしたけど、すごく貴重な経験をさせていただきましたし、

とても充実した代表人生だったと思います。 

 

――2016年には出場停止期間があったり、2020年の交通事故もあった。

さまざまなことがあった中で、世界で戦い続けてこられたことについての

思いは

 

 

僕自身、たくさんの人に迷惑をおかけして、支えていただいて、ここまで

ストレスなくやらせてもらった。本当に周りの人たちのサポートや応援の

おかげだと思っています。長いようで短く……、トータルしてみたら、

すごく幸せな時間だったかなと思います。 

 

――一番印象に残っている試合は 

 

2018年のジャパンOPで初めて優勝したときがすごく印象に残っています。 

 

――その理由は 

 

2016年から出場停止処分を受けて、2017年に復帰して、そこからの

ジャパンOPだったので、正直応援されないんじゃないかなとか、そう

いったネガティブな気持ちもすごくあったんですけど、コートに立つと

たくさんの人に応援してもらうことができましたし、いろんな人から

パワーをいただいて、いつも以上の力を出すことができたということを

すごく覚えています。やっぱり、日本で開催される大きな国際大会で

結果を出すというのが、僕なりの恩返しの仕方だと思っていたので、

それを形にできたのがすごくうれしかったです。

 

――ここまで10年間、日の丸を背負ってきて、桃田選手にとって日本代表

とはどんなものか 

 

子どもころから憧れていた日本代表のユニフォームを着て、国際大会で

戦うというのはすごく誇らしいものでしたし、誰しもがなれるポジション

じゃないと思うので、しっかり責任をもって、誇りをもって、僕なりに

チャレンジしてこれたかなと思います。 

 

――今後の活動について 

 

日本代表は引退しますけど、NTT東日本バドミントン部としての活動は

まだまだ続いていくので、これからもチームの練習だったり、地域貢献

活動にも積極的に参加していきたいです。あとは、バドミントンの楽しさを

感じてもらえるようなイベントに参加したり、自分からどんどん発信して

いきたいと思っています。バドミントンの活性化…、もっといろんな人に

バドミントンの楽しさ、スポーツの楽しさを感じてもらえるような活動を

していきたいなと思っています。 

 

――パリ五輪も間近に迫っている。ここまでバドミントン界をけん引

してきた桃田選手から、こう後輩たちにエールや思いを 

 

僕の立場からそんな偉そうなことは言えないんですけど、一度オリンピックを

経験した立場から言わせてもらうと、いつも通りのことをいつも通りに発揮

することの難しさをすごく痛感しました。一発勝負なので、結果を考える

ことなく、いつも通り、悔いのないように出し切ってもらいたいなと思い

ますし、僕自身もバドミントンが大好きなので、しっかり試合を見届けたいな

と思います。

 

――「世界トップをめざすのは厳しい」と実感したということだが、具体的

には 

 

目の手術をしてから、正直、思うように見えない部分もあったり、思う

ように体を動かせないだったり、普段の練習でそれまでなら疲れない

くらいの練習量でもすごく疲労を感じたりだとか……。そういった中で、

僕なりにトライはしたんですけど、ちょっともう…世界のトップの選手

たちと戦うレベルにはもう厳しいのかなと思いました。 

 

――事故後は自分の思うようなプレーがなかなかできなかったと。

それでも、ここまで続けてくることができた理由、思いは 

 

自分の思い描いているプレーと、今自分ができることの差というのが、

自分にとって一番しんどかった部分でしたけど、本当にいろんな人が

サポートしてくれたり、メッセージをくれたり、そのおかげで、何回も

くじけそうなところを続けてこられたと思います。でも、やっぱり

一番は、自分のバドミントンが好きっていう気持ちが、続けてこられた

理由かなと思います。 

 

――代表を引退しようと決断した時期、なにかきっかけになるような

出来事はあったか 

 

正直、事故があってから、自分としてはちょっと厳しいかなというのは

感じてはいたんですけど、その度にいろんな人に声をかけてもらって、

また頑張ろうと思ってトライして……と、その繰り返しでした。その中で、

この前(2月)のアジア団体に参加させていただいて、自分の中で、今、

日本代表引退を決断しても後悔することがないだろうなと思ったところが

一番だと思います。

 

――周りから見ても「あの事故がなかったら」と思うが、事故については、

桃田選手自身はどのようにとらえているか 

 

事故があった当初は、なんで自分なんだろうなというのを、思っていない

と言えば嘘になりますし、正直、本当にしんどいことだらけ、つらいこと

だらけだったんですけど、そのつらいことを事故のせいにしたくなかった。

それすらはじき返したかった。その気持ちだけで。あとは、周りの人たちの

心強いサポートのおかげで、ちょっとだけ踏ん張ることができたかなと

思います。 

 

――代表活動を自分からやめるということに関しては、すごく葛藤があった

と思うが 

 

僕一人の考えとして、代表を引退しようというのは簡単だったと思うん

ですけど、やっぱり今まで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちという

のは、コートの中でしか表現できないという思いがあったので、その人

たちの前で簡単に諦めたくないなという気持ちもたくさんありました。

僕自身、すごくいろいろ考えて、いろんな葛藤があったんですけど……、

やっぱりやるからには世界一をめざしたいなというのは、ずっと思って

いて。正直、今の自分じゃ、もう厳しいかなと思ったところで、次は

今まで支えてくれた人たちや応援してくれた人たち、自分に憧れて

バドミントンを始めた子どもたちに恩返しができるようなことをして

いきたいなと思ったので、日本代表を引退することを決断しました。

 

――パリ五輪レース前、「もう一度、オリンピックの舞台に立ちたい」

という言葉もあった。それほど特別な舞台だったと思うが、東京

オリンピックはどんな場所だったか 

 

今思い返しても悔しい思いしかないですね。すごく攻撃的な相手に対して、

気持ちが引いてしまった。そこに対して、自分の気持ちの準備ができて

いなかったという部分がすごくあります。でも、自分が昔から憧れていた

オリンピックの舞台に立てたというのは、すごくいい経験ができたなと

思っています。 

 

――パリ五輪の選考レースでは、ライバルとなる日本選手が活躍する中、

苦しい状況で戦っていたが、どんな気持ちだったか 

 

出だしから奈良岡(功大)選手、西本(拳太)選手がポイントを稼いで

いく中で、自分は腰のケガなどで、初めからすごく厳しい状況では

あったんですけど、試合に出させていただける限りは自分のすべてを

出し切ろうと思っていましたし、それが結果につながらなかったのは

すごく悔しいですけど、後悔はないです。出場できる二人には、出ら

れなかった人たちのぶんまで頑張ってもらいたいなと思います。 

 

ーー桃田選手にとって、オリンピックというものはどんなものか。

代表引退により、その舞台を目指さなくなるということについては 

 

バドミントンを始めてから、オリンピックという舞台は憧れの舞台

でしたし、出場できたのはすごくうれしかったです。そのオリンピックで

結果を出せなかったというのはすごく悔しい気持ちでいっぱいです。

ですが、日本代表を引退して、もうオリンピックを目指さなくなると

いうことに関しては、もう今は、後悔などというのはないです。

 

――4月27日から開催されるトマス杯には日本代表として出場する。

桃田選手は日本だけではなく、世界中にファンがいる。どんなプレーを

見せたいか 

 

最近は、会場に行くと、自分の結果と見合わないくらい、たくさんの

人に応援していただけて、本当にうれしい限りですし、トマス杯は

自分の集大成になるので、どん欲にコートの中を動き回りたいと思います。

そういった泥臭いプレーを見ていただけたらいいかなと思います。 

 

――桃田選手が日本代表に入って初めて大きな国際大会で優勝したのがト

マス杯だった。日本代表として最後にプレーするのがトマス杯という

ことについて 

 

僕自身、団体戦はすごく好きで、今回一緒に参加するメンバーにも、

これまで何度も相談したり、話を聞いてもらって、僕自身また頑張ろうと

思えたのも、今の日本代表メンバーがいたからだと思っています。

そのメンバーと戦う団体戦で、少しでも力になれればと思っています。 

 

――これまでたくさんのタイトルを獲得し、「日本人初」など輝かしい

成績を収めてきました。そうしたことを思い返して、どんな思いがあるか 

 

あらためて僕自身もびっくりするくらいの結果を出すことができたなと

思います。僕なりにバドミントンがどううまくなれるか、強くなれるか

というのを追求していく中で、運が味方してくれて、こういう結果を

出すことができたと思いますし、本当に僕は周りの人たちに恵まれている

と思います。チームメートや、環境をつくってくれる人たちに感謝

したいなと思います。ありがとうございます。

 

 

――印象に残る試合に2018年のジャパンOPを挙げた。2015年以前も

勝っていたけれど、2017年の復帰以降は、キャリアとしてまた違う

思いがあったように見えた 

 

そうですね。2017年の復帰以降は、勝つことだけがすべてじゃない

というのと、コートの中での振る舞いだったりとか、コートを出て

からの行動だったり、勝つだけじゃなく、応援されるような、周りの

人たちから愛されるような選手になりたいと、自分なりに思っていました。

その中で、それが達成できたかどうかはわからないですけど、今では

本当にたくさんの方に応援していただけるようになって、僕の日本代表

としての約10年間は本当に誇らしいものだったんじゃないかなと思います。 

 

――自分のテクニックの中で、世界に誇るもの、これがあったから戦って

こられたというものは。ケガがあった中でも、世界の中で戦えた要因とは 

 

それは、たぶん…シャトルコントロールとスタミナがうまくかみ合って、

結果が残せたのだと思います。あとは、自分で自分の弱点というのは

すごく理解していて、それを見せないような戦い方が少し上手だった

だけかなと。 

 

――事故でケガをして以降は葛藤や苦悩が大きかったと。振り返って

みて、その期間というのは、バドミントン選手として、人間として

どんなふうに桃田選手を成長させたか 

 

僕はバドミントンを感覚でやるタイプで、なんで今のショットが打てた

のか、なんでこうなっているのかというのを言葉で説明することが

できなかったんですけど、一回自分ができなくなって、どうやって

やっていたんだろうと考えるようになって。それで少しずつ言葉で

説明できるように少しはなったと思うので、そういった部分も、

今後自分がバドミントンを伝えていく中で、しっかり言葉で自分が

考えたことを次の世代の選手たちに伝えていけたらいいのかなと思います。 

 

――これからもプレーを続けていく。どんな姿を見せていきたいか 

 

チームには所属しているので、必要とされる場面がくれば、そのときの

ためにしっかり準備して、チームに貢献していきたいなと思っています。 

 

――出身地の香川などで応援しているファンへの思いは 

 

国際大会や国内大会で試合結果を報じてもらって、応援してもらって

いたのを感じて、すごく心の支えにもなっていました。自分が国際

大会に出ないという決断をしたのは少し申し訳ない気持ちでもあるん

ですけど、これからも違う角度からバドミントンに貢献していきたいと

思っているので、楽しみにしていただけたらと思います。

 

――中高生時代を過ごした福島への思いについて。福島は、桃田選手に

とってどんな存在だったか 

 

僕が苦しいときに、福島県の方々からのメッセージというのは、すごく

心強かったですし、どこかで気分転換したいなと思ったときには、

後輩たちのいるチームで一緒に練習することで、気持ちを新たに頑張る

ことができました。本当に感謝していますし、僕がもらったぶん、

これからは少しずつ恩返ししていけたらいいなとい思います。 

 

――「被災地の思いを世界に伝えるためにも、自分が世界で活躍する

ことに意味がある」と言っていた 

 

中学から富岡町に寮生として入ってから、本当にたくさんのことが

ありましたし、あれから10年以上経って少しずつ震災というのが

世間の人たちから薄れていく中で、富岡高校卒業の僕だったり後輩

選手が活躍することによって、復興に向けての活力として少しは貢献

できたんじゃないかなと思います。これまでは試合続きで、直接地域の

方や子どもたちとふれ合うということがあまりできなかったので、

これからはそういったことにも自分なりに取り組んでいきたいと思って

います。 

 

――今後、時間ができて、プライベートでやってみたいことなどは 

 

僕は自動車の運転免許を持っていないので、時間ができたら免許を

取れたらと思っています。