TOKIO城島茂「自分にできることを問い続けたい」福島で被災し共に歩み続ける13年 | ☆Precious Days☆

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旧ジャニーズ事務所の性加害問題を受けて、所属タレントの起用見合わせが

相次いだ昨秋、福島県は「苦しいときも県民に寄り添ってくれた」として

城島茂が代表取締役をつとめる(株)TOKIOとの事業継続を表明した。

番組の企画で、福島県浪江町の土地を開墾するDASH村での活動を始め、

住民との関わりが増えていく最中で起きた東日本大震災。あれから13年が経ち、

TOKIOのリーダーとして、会社の代表として城島が今、思うこととは──。

(取材・文:内橋明日香/撮影:堀内彩香/Yahoo!ニュース オリジナル 

特集編集部)」

 

「ここは崩れる」ロケ中の被災

 

今年1月下旬、元日に発生した能登半島地震の被災地で、炊き出しの

ボランティアに励む城島の姿があった。 

 

「東日本大震災をきっかけに日常が非日常になることを知りました。でも

そこから、自分の物事への向き合い方に対する意識が変わりました。能登

半島のみなさんも、日常を早く取り戻せる状況になってほしいと願って

いますし、そのためにはまずできることからと思っています。テレビ、

ラジオ、歌、コンサート。すぐには無理でも、少しでも早くそういった

ものを楽しめる状況になるように、行動していけたらと思っています」

 

意識が変わるきっかけになった東日本大震災。13年前の2011年3月11日、

城島は福島県浪江町にいた。バラエティー番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の

企画でスタートしたDASH村でのロケ中に地震が起き、震度6強の揺れに

襲われた。 

 

「その日は、雨どいを作っていました。柿渋を塗った木を組み立てて、

それを乾かそうと遅めの昼休憩をしていたんです。囲炉裏を囲んでカレーを

食べているときに、突然ドンッと何かが来たという感覚がありました」 

 

このままでは建物が崩れると思い、強い揺れの中で必死に外に飛び出した。

幸い、周囲に大きな建物はなく、その場にいた全員が無事だった。

 

「『サザエさん』のエンディングで磯野家の家族が次々と入って家が揺れる

ところがありますよね。本当にそれくらい揺れていました。でも、かやぶき

屋根で作った母屋の被害は、土壁のひび割れ以外はほとんどなかったんです。

地元の大工の棟梁に教わって自分たちで廃材を利用して作ったんですが、

釘を使わず昔ながらの手法で建てた家の強さを改めて感じました」

 

もう戻れない

 

メンバーや家族は無事なのだろうか。連絡を取ろうとしても携帯電話は

つながらない。テレビをつけると、どうやら沿岸部では津波が来ているとの

ことだった。まるで映画の世界で起きている話のようで、リアルに感じる

ことはできなかったという。 

 

「都市部は建物の倒壊が多いとの情報だったのでその場で夜を迎えたのですが、

どうやら原発が危ないと聞きました。朝を待って明るくなってから車で東京に

向かって、到着まで11時間くらいかかりました。途中、コンビニに寄っても

棚に何にもないんです。ただごとではないと思いましたけど、まだこのときは、

落ち着いたらロケを再開できると思っていました」

 

東日本大震災の被害は城島の想像をはるかに超えていた。福島第一原子力

発電所の事故の影響で、放射線の値が高い地域は立ち入りを制限され、住民

たちは県内外に散り散りに避難した。浪江町は、町内全域が避難指示区域と

なった(除染やインフラ復旧を経て段階的に解除されるがDASH村を含む町の

面積の8割が今も帰還困難区域に指定されている)。 

 

「まさかもう立ち入れなくなるっていう発想がなかったんです。奈良県出身

なんですが、阪神・淡路大震災のときは一人暮らしをしていて東京にいて。

でも、阪神・淡路大震災では、同じ場所を復旧させるという概念があったと

思うんです」

 

震災から1年後に見た光景

 

城島が再び福島県浪江町のDASH村を訪れたのは、震災から1年が経った頃

だった。土壌除染の実証実験を行う番組の企画だったが、放射線の影響で

立ち入りを許可されたのは2時間だけだった。

 

「いつも行っていた場所に行くのに、なんで許可がないとだめなんだと

思っていました。すでにあの場所はホームのような感覚だったんです。

防護服を着て村に入って、愕然としました。どこが畑で、どこが田んぼか

わからないくらい背が高い草木が生い茂っていて。土地を耕して11年かけて

いろんなものを作ってきたのに、1年でこんなになってしまった。ずっと

心の中で、作業が途中だったことが気がかりだったんですが、母屋の割れた

窓ガラス越しに、地震で中断した雨どいがそのまま残っているのが見えて、

切ない気持ちになったのを覚えています」 

 

複雑な思いを抱きながらも、喜びもあった。1年ぶりに住民との再会を果たす

ことができ、涙があふれた。

 

「お互い無事でよかったねと言い合いました。でも、酪農をされている方が、

もう酪農はできねぇな、牛は置いていくしかなかったってポツリと言った

ひとことがいまだに耳を離れないんです。あの状況では、自分たちだけが

避難するしかなかった。被害はさまざまですが、見えない放射線の影響で

住んでいた場所に戻ってこられないという無念さはみなさん同じで。自分が

何もできないことが本当に悔しかったです」 

 

原発から30キロほどのところに位置していたDASH村のある浪江町津島は、

福島県内でも放射線量が高く、ニュースでその地名が上がることも多かった。

 

「あそこはもうだめだって人に言われたら腹が立ちました。例えば、うちの

おかんに自分はいろいろ言うけど、他人から言われたら腹が立つのと同じ

ですね。山に囲まれていて地形的に風が停滞しやすいので、稲のいもち病も

発生する。盆地で暑いし寒い。荒れ地を開墾して、初年度に作った米や

野菜は出来が悪かったんです。でも、そういうものほどかわいいんですよ。

みんなで刈り入れて、かまどで炊いた米のおいしかったこと。村人と

メンバーと縁側に並んで炊き立ての米を食べたんですが、この記憶は

一生残るんだろうな。本当にいい場所ですよ」

 

「自分にできること」への答え

 

TOKIOは風評被害を受けた福島県産の農作物などのPR活動に励み、県の

CMにも毎年起用された。県庁には「TOKIO課」も設置され、長年の

活動で、福島を応援するTOKIOのイメージも世の中に浸透していった。 

 

「自分たちは何かを伝えることはできると思ったんです。何もできないと

思っていたなかで、手段があるというのが、ひとつの救いになっています。

野菜や米もしっかり検査をして、数値化して。その過程を直接見てきました。

生産者さんは、ここで生活をして一生懸命頑張っていらっしゃる。そういう

方々の取り組みを伝えていくのが、福島とつながりがある自分にできること

への答えなのかなと思います」

 

福島と共に歩み続ける。その証しともいえるプロジェクトが動いていた。

TOKIOは、今からおよそ3年前に福島県西郷村の土地を購入し、東京ドーム

2個分の広さがあるその場所を「TOKIO-BA」と名づけた。現地では、産直

野菜のマルシェや収穫体験などのイベントが定期的に開催され、訪れた人が

楽しんでいる。また、リアルタイムで現地からの情報発信も行っている。

 

「TOKIOのメンバーが5人から4人、3人となって、次のステージをどうするか

考えたときに、これまでいろんなものを作ってきたけど会社をつくったこと

はないよねというところから始まったんです。DASH村での経験をもとに、

何もない場所を一から自分たちで切り開いてみたい。(国分)太一のアウトドア

好きを生かしてキャンプをしたり、子どもも大人も遊べたりするような場が

あったらいいよねって。それをするなら絶対、場所は福島でしょうというのも

3人一致していました」

 

会社名には自分たちの名前を掲げた。(株)TOKIOの社長に就任したのは

城島だった。 

 

「松岡(昌宏)が、神輿は軽いほうがいいって言うんです。3人しかいない

会社ですから、2人は副社長なんですけど、太一が企画で、松岡が広報と

それぞれに役割をつけました。TOKIOは昔からそれぞれに意見を持ち寄って、

ああだこうだ言って決めているんです。そのやり方は今も変わらないのですが、

自分が代表となって3人で会社をつくってからは、物事の舵取りや、判を押す

のもそうですけど、より自由度が増したと思います。これまでの企業に所属

するタレントとしての立場から、自分たちで決めていくプロセスを通じて、

新たな一歩を踏み出している実感があります。全員がそろう仕事があると、

よく話し込んでいますね。それこそ福島駅前の喫茶店でも。3人で話したら、

臨時取締役会なんですけど。ただ、自由度が広がった分、慎重に見定めていく

責任も感じながら取り組んでいます」

 

「こんなときこそTOKIOを」の声に感謝 恩返し誓う

 

TOKIO-BAの活動が軌道に乗ってきた矢先。昨年、旧ジャニーズ事務所の

性加害問題が明るみとなり、所属タレントの出演や広告起用などの打ち切りが

相次ぐ事態となった。旧事務所出身のTOKIOも、逆風とも言える状況に

置かれていたなか、福島県は(株)TOKIOとの事業を継続していくことを明らかに

した。県が公表したコメントには、いかなる性加害も絶対に許されるものでは

なく、事務所は社会的責任を果たすべきとした上で、「TOKIOの皆さんは

(中略)私たちが風評被害などで最も悩み、苦しんでいた時も、福島に寄り添い

続け、福島県民を勇気づけてくれた。(中略)今後も変わらず福島県を

応援していただきたい」との1文があった。

 

「もう、ありがたいのひとことです。県民のみなさんも、県庁の方も含めて

そう言ってくださって。普通だったら、お叱りの声があって然るべきだと

思うんです。知事とはたびたびご一緒させてもらっていて、この件はお礼の

電話でお話しさせてもらったんですけど、『やはりこんなときこそTOKIOを

という声が多くて』と伺いました。正直、涙が出そうになりました。助け

られているな、また恩返しをしていかなきゃなと思いました」

 

それぞれの生きた証を刻む

 

インタビュー中、城島の表情が最も和らいだのは、TOKIO-BAで見た光景の

話をしていたときだった。

 

「池に、イトトンボが2匹飛んでいたんです。つがいだったんですが、メスが

卵を産んでいるところに、オスが付き添って守っているんです。その光景を

見たら、こんなに小さくても大切な命を次につなげているんだと思いました。 

 

自分が生きた証しって、最大の足跡は次の世代にバトンを渡すことかなと

思うんです。TOKIOが大好きな言葉なんですけど、共に創り上げると書いて、

共創。TOKIO-BAはそんな場所にしたいんです。僕らが教わってきた創る喜びを

次の世代に伝えられたらいいですね。例えば、ここを家族で訪れて、5年後、

10年後に大切な人と来て、そのふたりが結婚して、次の世代と一緒にこの場を

訪れる。そのときTOKIO-BAに『これ昔、お父さんが作ったんだよ』と語り

継げるようなものがあったら面白いし、それぞれが生きた証しが刻まれる場所に

なったらいいなと思っています」 

 

歩みを止めない城島に、活動の根源にあるものは何かと問いかけると、20年

以上にわたって福島で活動をするなかで見てきた「師匠」の話を口にした。

 

「技術を教えていただいた方を尊敬の意味を込めて師匠と呼んでいるんですが、

みなさんに共通することがあるんです。DASH村でTOKIOに農業を教えてくれた

三瓶明雄さん(故人)は、カンナも重機も何でもできるスーパーおじいちゃん

だったのに、口癖が『まだまだ』でした。他の福島の方も同じことを仰るん

ですよ。その道のプロは、一様に自分の現状に満足していない。その背中を見て

いたら、師匠たちのように日々努力しなきゃと思うんです。まだまだ、と言い

聞かせて常に自分にできることは何か、問い続けていきたいです」

 

 

--- 城島茂 

1970年生まれ。奈良県出身。1994年アイドルグループTOKIOのリーダー

としてデビュー。2000年からバラエティー番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の

企画で、福島県浪江町でDASH村の活動を始め、村の開墾や農作物づくり

などに携わる。東日本大震災後、風評被害に苦しむ福島の農産品などの

PR活動に従事。2021年(株)TOKIOの社長に就任。福島県西郷村で何も

ない場所から共に創り上げていく「TOKIO-BA」プロジェクトを開始。