「体操ニッポン」の礎築いた遠藤幸雄氏が死去 | ☆Precious Days☆

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☆読売新聞☆


1964年東京五輪で三つの金メダルを獲得するなど、

「体操ニッポン」の全盛期を支えた遠藤幸雄(えんどう・

ゆきお)氏が25日、食道がんのため、都内の病院で死去

した。72歳だった。

 故人の遺志で密葬。後日、お別れの会が開かれる見通し。

 秋田市出身。中学2年生で体操を始め、秋田工高から

東京教育大(現筑波大)へ進学。60年ローマ五輪で男子

代表チームに名を連ね、団体総合優勝に貢献。東京五輪

では、日本人で初めて五輪の個人総合覇者となった。

68年メキシコ五輪は日本選手団の旗手も務めた。

 3度の五輪で5個の金メダルを獲得。鉄棒の新技として

発表した「前方浮腰回転倒立」は、国際体操連盟(FIG)の

採点規則に「エンドー」として登録され、現在でも演技を

構成する上で、欠かせない技の一つになっている。

 現役引退後は日大で後進の指導にあたり、日本オリン

ピック委員会(JOC)理事などを歴任。96年に紫綬褒章を

受章し、99年、国際体操殿堂入りを果たした。
            

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☆産経新聞☆


 1964年東京五輪の個人総合で日本選手初の金メダリスト

となった遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)氏が25日午前4時16分、

食道がんのため、東京都千代田区内の病院で死去した。

72歳。秋田県出身。2007年10月に食道がんの手術を受け、

昨年1月に再入院していた。

 葬儀は密葬で行われ、後日「お別れ会」を行う。

 体操の五輪、世界選手権など「体操ニッポン」の栄光の

時代を築いた中心選手。初の国際大会出場だった60年の

ローマ五輪で団体金メダルに貢献した。27歳のときの64年

東京五輪では日本男子で初めて個人総合を制したほか、

種目別平行棒、団体総合の3個の金メダルを獲得した。

68年メキシコ五輪団体でも優勝に貢献し、五輪で金5個、

銀2個の計7個のメダルを手にした。

 現役引退後は、日本体操協会の専務理事、副会長、

日本大学教授などを務め、99年には国際体操殿堂入りを

果たした。


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☆時事通信☆


 男子体操の元五輪金メダリストで、元日本体操協会

副会長の遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)氏が25日午前4時

16分、食道がんのため、東京都千代田区の病院で死去した。

72歳だった。
 秋田市出身。葬儀は密葬で行い、日時と場所は非公表。

喪主は妻保子(やすこ)さん。後日、体操協会などが

「お別れの会」を予定している。2007年10月にがんを手術し、

昨年1月にも再手術を受けていた。
 中学で体操を始め、秋田工高時代から本格的に取り組んで

東京教育大(現筑波大)に進んだ。1964年東京五輪では

日本選手初の個人総合優勝を果たすなど、3つの金メダルを

獲得。60年ローマ、64年東京、68年メキシコ五輪の団体総合

3連覇に貢献し、「体操ニッポン」の黄金期を中心選手として

支えた。3度の五輪で獲得したメダルは金5、銀2の計7個。

メキシコ五輪では日本選手団の旗手も務めた。
 現役引退後は日大で後進の指導にあたり、体操協会副会長、

日本オリンピック委員会理事などを歴任。96年に紫綬褒章、

昨年は旭日中綬章を受け、99年には国際体操殿堂入りを

果たした。 

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☆毎日新聞☆


 「体操ニッポン」を築いた時代に、遠藤さんの姿があった。

日本男子は団体総合で60年ローマ五輪から76年モントリ

オール五輪まで5連覇したが、遠藤さんはそのうちローマ、

64年東京、68年メキシコと3大会連続で金メダル獲得に

貢献した。

 遠藤さんの演技は、端正かつ独創的なものだった。自ら

発案した鉄棒の旋回技「エンドー」は、現在の演技構成にも

欠かせない技の一つ。時代の枠を超え、世界の競技者に

影響を与え続けている。

 メキシコ五輪団体総合で遠藤さんとともに表彰台の中央に

立った監物永三さんは、遠藤さんの演技を「キレがあって、

まじめ」と表現し、五輪通算8個の金メダルを獲得した加藤

沢男さんは「技がシャープ。日本が世界で勝ち始めたころ、

遠藤さんは切り札のような存在だった」と振り返る。

 一方、飾らない人柄で後輩をひきつけた。虫垂炎で、個人

総合の本命と見られていた76年モントリオール五輪の出場を

逃した笠松茂さんは「遠藤さんは、常に私の横にいてくれた」と

回想する。また、監物さんは「メキシコ五輪のころ、私はまだ

20歳だった。当時は大学同士のライバル意識が強かったのに、

遠藤さんは私をいろいろな所に連れて行ってくれ、人との

接し方や社会常識を教えてくれた」と話した。

 カラオケ好きで、一度マイクを持ったら離さなかったという

遠藤さん。その後を追うように、後輩たちは世界の舞台に

挑戦し続けている。

 ▽日本体操協会・二木英徳会長 「体操ニッポン」の礎を

築いていただき、その活躍は多くの国民に元気と勇気を

与えてくれた。その不屈の精神と誇りは、遠藤氏の雄姿と共に

語り継がれ、「体操ニッポン」の魂となって永遠に生き続ける

ことと思う。

 ▽竹田恒和・日本オリンピック委員会会長 東京五輪で

金メダルを獲得され、当時高校2年生だった私自身、競技者

として世界を目指したことを思い出す。現役引退後も日本

スポーツ界の発展に多大な貢献をいただいた。これまでの

ご尽力に深く感謝申し上げます。

 ▽三宅義信さん(東京五輪の重量挙げ金メダリスト)早過ぎ

ますね。遠藤さんとはしょっちゅう言葉を交わしていた。遠藤

さんが東京五輪で望んでいたのは、銀や銅ではなく、ゴールド

(金メダル)だけ。「体調を崩さないよう、合わせるのが極めて

難しい」と話していた。


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☆毎日新聞☆


 1964年東京五輪で「体操ニッポン」の金メダルメンバー

だった遠藤幸雄さんが25日、72歳で亡くなった。同じ秋田県

出身の先輩で、遠藤さんと体操界をリードした小野喬さん

(77)は、突然の悲報に大きなショックを受けた。

 遠藤さんは9歳で母親を亡くし、事業に失敗した父と別れて

中学1年から秋田市内の福祉施設で過ごした。大学(東京

教育大)も施設の関係者から仕送りを受けながら卒業した。

 中学2年から体操を始め、56年メルボルン五輪の鉄棒で

日本体操史上初の金メダルを獲得した小野さんを目標に

努力を重ねた。日本中が注目した64年東京五輪では小野さん、

鶴見修治、早田卓次、三栗崇、山下治広の各選手と出場した

団体総合で60年ローマ五輪に続いて日本を2連覇に導いた。

 小野さんは「長く闘病していたと聞いたが、残念で仕方が

ない」と話し、東京五輪の活躍について「遠藤さん本人が

何より一生懸命頑張った結果だった」と振り返った。

 小野さんの妻で東京五輪の体操女子団体総合で銅メダルを

獲得し、現役引退後は参院議員を務めた小野清子さん(73)も

「姉弟みたいなもの」と声を落とした。遠藤さんは秋田の

中学校の後輩だったといい、清子さんは「一学年下に体操を

始めたばかりなのに難しい技を次々にこなす生徒がいた。

それが遠藤さんで才能を順調に伸ばして世界のトップまで

上り詰めた」と話す。

 現在も秋田市内にある福祉施設の職員は「苦境に負けな

かった生き方は語り継がれ、子どもたちの励みになっている」

と話した。


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☆スポーツニッポン☆


 五輪、世界選手権男子団体総合10連覇など「体操ニッポン」

栄光の時代の中心選手で、64年東京五輪の個人総合で

日本選手初の金メダリストとなった遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)

氏が25日午前4時16分、食道がんのため都内の病院で死去

した。72歳だった。葬儀は近親者で行い、後日、お別れ会を開く。

喪主は妻保子(やすこ)さん。引退後も日本体操協会の役員

として後進の育成に尽力するなど、体操に生涯をささげた人生

だった。

 体操ニッポンの黄金時代を支えた英雄が、帰らぬ人となった。

遠藤氏は、07年10月に食道がんの手術を受け、一時は回復に

向かっていたが、腹痛を訴えた昨年1月に緊急手術。北京

五輪開幕直前の昨年8月4日に再び入院してからは闘病生活が

続いていた。

 遠藤氏は中学2年生で体操を始め、秋田工から東京教育大

(現筑波大)を経て、同じ秋田出身の先輩・小野喬氏とともに、

日本の中心選手として活躍。日大助手時代の60年には

ローマ五輪で初の団体総合優勝にも貢献した。64年東京

五輪では日本人初の個人総合の金メダルを獲得。ソ連の

不敗神話を打ち破り、美しい体操のオールラウンダーとして、

日本の強さを世界に示した。

 日本選手団の旗手を務めた68年メキシコ五輪では団体

総合3連覇するなど、五輪3大会で金5、銀2の計7個の

メダルを獲得。世界選手権では金3、銀5、銅2の計10個の

メダルも獲得した。鉄棒の「前方開脚浮腰回転倒立」は国際

体操連盟が「エンドー」と命名。99年には国際殿堂入りも

果たした。

 現役引退後は日本体操協会の専務理事、副会長、日本

オリンピック委員会(JOC)理事などを歴任し、日大教授と

しても後進の指導に当たった。96年に紫綬褒章を受章し、

昨年には旭日中綬章も受章。日大名誉教授で、日本体操

協会の顧問を務めていた。60歳を超えても、授業中に鉄棒の

大車輪を披露していた遠藤氏。体操にささげた72年の生涯

だった。
      

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☆スポーツ報知☆


 体操の五輪代表として金メダル5個を獲得し、「体操

ニッポン」の黄金時代を築いた遠藤幸雄氏が25日午前4時

16分、食道がんのため、東京・千代田区内の病院で死去した。

72歳だった。遠藤氏は60年ローマ五輪の団体総合で優勝

したのを手始めに東京、メキシコの3大会で金5、銀2の

計7個のメダルを獲得。引退後は日大教授、日本体操協会

副会長などの立場で体操の指導、普及に努めていた。

 64年東京五輪で日本人初の個人総合を制するなど3個の

金メダルを獲得。美しくシャープな演技で、60年から76年

モントリオール五輪まで続く団体5連覇の礎を築いた昭和の

名選手が、この世を去った。

 遠藤氏は07年10月に食道がんの手術を受け回復に

向かっていたが、腹痛を訴えて昨年1月に緊急手術。

同8月に再入院してからは闘病生活が続いていた。昨年

11月の旭日中綬章の授章式が、最後に姿を見せた公の

場となった。

 日大助手時代の60年ローマ五輪で日本初の団体総合

優勝。64年東京で金3、銀1、日本選手団の旗手を務めた

68年メキシコでも金1、銀1と計7つのメダルを獲得。世界

選手権でも10個(金3、銀5、銅2)のメダルを手にした。

 鉄棒の「前方開脚浮腰回転倒立」は国際体操連盟(FIG)が

「エンドー」と命名。生前、「頭のてっぺんから足の先まで

ぴーんと伸びているのがきれい」と美しさを追求した演技の

基礎が、04年アテネ団体金のエース冨田洋之氏(28)や

08年北京団体、個人銀の内村航平(20)=日体大=らに

引き継がれた。FIG・加藤沢男技術委員(63)は「遠藤さんの

体操は、日本の進むべき方向を示したと思う」と振り返り、

日本体操協会の二木英徳会長も「遠藤さんの作り上げた

精神と誇りは永遠に生き続ける」と別れを惜しんだ。

 引退後は同協会の専務理事、副会長を歴任するなど、

長きにわたり体操界をけん引。現在は日大名誉教授で、

同協会の顧問を務めていた。葬儀は近親者で行い、後日、

お別れ会を開く。

 ◆遠藤 幸雄(えんどう・ゆきお)1937年1月18日、秋田市

生まれ。中学2年で体操を始め、秋田工、東京教育大

(現筑波大)を経て、日大助手時代の60年ローマ五輪から

3大会で計7個のメダルを獲得。日本体操協会の専務理事、

副会長、JOC理事などを歴任し、日大教授としても後進を

指導。99年国際体操殿堂入り。長男・幸一氏は日本体操

協会常務理事。

 塚原光男氏(メキシコ五輪団体優勝メンバー)「まだ若いし、

残念に思う。(72年)ミュンヘン五輪のときに右ひざをけが

していたが、チームリーダーの遠藤さんが起用してくれた

おかげで月面宙返りで金メダルが取れた。お酒も飲みに

連れていってくれたり、公私ともお世話になった」

 加藤沢男氏(東京教育大=現筑波大=の後輩で68、72年

五輪個人総合2連覇)「高校に入るころからのあこがれの

存在でいつも手本にしていた。いろいろなことをもう聞くことが

できないと思うと寂しい」

 具志堅幸司氏(84年ロサンゼルス五輪個人総合優勝)

「東京五輪で日本最初の個人総合金メダリストになって、

国民の英雄だった。選手時代は指導もしていただいて尊敬

していた先生。日本の体操をメジャーにした功績は先生の力。

本当に残念です」


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☆日刊スポーツ☆


 「体操ニッポン」の礎を築いた遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)氏が

25日午前4時16分、食道がんのため、東京・千代田区の

駿河台日大病院で死去した。72歳だった。60年ローマ五輪で

日本初の団体優勝、64年東京五輪では個人総合初の

金メダルを日本にもたらすなど、五輪と世界選手権で金8、

銀7、銅2の計17個のメダルを獲得。日本体操界をけん引した

人生だった。故人の遺志で密葬され、後日、お別れの会が

開かれる予定だ。
 遠藤氏は07年10月に食道がんの手術を受け、一時は

回復に向かっていたが、昨年1月に緊急手術、同8月4日に

入院後は闘病生活が続いていた。昨年末まで持てばといわ

れていたが「心臓が強く、さすが世界を制した方」と病院

関係者を驚かせる生命力をみせたが、ついに力尽きた。
 秋田市の久保田中2年のときに周囲の勧めもあり、

「かっこいいと思った」と、鉄棒の蹴上がりもできないのに

体操を始めた。秋田工高では「将来の就職を考えて」と

電気科を選択。そこで転機が訪れた。秋田出身の先輩・

小野喬氏(56年メルボルン五輪鉄棒で日本体操初の金)の

演技を見て感動。3年時に高校総体個人2位となり、東京

教育大(現筑波大)に進学。卒業後、日大助手となって、

60年ローマ五輪代表に選ばれ、日本初の団体総合優勝に

貢献した。 エースとして臨んだ64年東京五輪では日本初の

個人総合優勝など金メダル3つを獲得。選手団の旗手を

務めた68年メキシコ五輪では、若手をまとめて体操団体

総合3連覇を達成した。五輪のメダルは金5、銀2。「体操

ニッポン」の道筋をつくった。その後、日本体操協会専務

理事(現顧問)や日本オリンピック委員会理事などの要職を

歴任。日大(名誉教授)では後進の指導に熱心だった。

96年紫綬褒章、昨年は旭日中授章を受章。99年には

体操殿堂入りを果たした。 「美」を追求した体操で世界を

制した。「頭からつま先まで伸びること。体操は美しくないと

いけない」と常々話し、その思いは脈々と受け継がれている。

鉄棒の「前方開脚浮腰回転倒立」は国際体操連盟が

「エンドー」と命名、今もトップ選手が取り入れている。

美しい「体操ニッポン」を築いた功労者が体操一筋の人生に

幕を下ろした。