基本的に、子どもが自分の力でできない宿題は出したらいけないという意見をもっています。
だから、宿題が計算ドリルと漢字ドリルになってしまいがちだった反省もあるのですが。
それは、全ての保護者さんが、自分と同じように読み書きに問題ないわけではないことを知っているから。
人権について学ぶ機会に比較的恵まれて生きてきました。
その中で、字を読むことが困難な方の話を聞かせていただきました。
外国籍の子どもさんが多い地域では、他言語も作るなど、通信の出し方を工夫している話をうかがいました。
「自分らが学びたいという姿勢がだいじや。」
と先輩の同僚から言われてきたけれど、ぴんときていないまま、いろんな経験をさせてもらってきました。
だから、学んでいるうちに、私の中の当たり前が、子どもが自分の力でできる範囲の課題しか出さないというようになっていった感じです。
同じように、持ち物の欄に新聞紙って書く時に、新聞紙(ある人)って書くようになっていきました。(とっていない家庭もありますよね。)
1年生の夏休みの課題に読書感想文と科学研究は、読書感想文が規定の800字を求めているんだとしたらありえない量だし、科学研究は、生活科しかやっていない子どもにとって課題をたて、そこから予想し、必要なものを準備して観察なり実験なりをし、結果を出し、そこから考察するってありえません。
生活科では、
「あさがおが、たくさんさいたよ。つるがぐんくぐんのびているよ。」
「みずをあげたら、はっぱがぴんとしたよ。」
みたいな感想でまるですからね。
理科的な視点の基礎的な力を培うことも視野にいれながら、基本は動植物に親しむ活動をしくんでいるんですよね。
理科になって、茎の丈やら、葉の数など、理科的な視点で観察することの重要性を伝えていきます。
そんな段階の子どもさんに読書感想文と科学研究ってありえません。
保護者さんが協力してくださることを前提の宿題ですよね。
そして、どの保護者さんも先生方と同じように課題についての説明を読んだら目的が分かって、自分の子どもにやりきらせることができると思っておられるんですよね。
(私は、選り好みの激しい長男くんに、意味があると思えない多量の文字を書かせてやりきらせる自信はありませんが…(^_^;))
確かに、長い夏休み、科学研究に取り組んだらいつもとは違う経験ができます。
でも、その経験、1年生の子ども全てがする必要があるのでしょうか。
理科は、3年からなのに。
ものすごく字を書くのが好きで、まとめまでやりたい子どもはやればいいんです。
(そのために選択制になっています。)
1年生だったら、するとしても、実験の部分の経験だけして、楽しかったね、で、いいんじゃないでしょうか。
保護者さんが協力してくださることを前提としている地域は、たぶん、ものすごく恵まれているから、ずっと慣例として残ってきているんだろうな、と、思います。
(いろんな家庭の背景に目を向けずにきても大丈夫だったのかな。)
でも、おかしいと思う人がいるんだったら、一人では無理だとしても、まわりの人にも聞いてみて仲間を作って声をあげるべきだと思います。
自分が人権の学習を通じて学んできた、
「おかしいと思うことは、勇気を出して声に出す。」
ということは、こういうときにも言えるんだ、と、思いました。
学校に対して何か言うって、たぶん、勇気がいると思います。
だからこそ、保護者は愚痴を言いながらして、みんながしてくるから問題ないと学校は判断して続いていっているんでしょうね。
変えるのは自分って行動を起こすって、なかなか大変なんだろうな。
(私は、この件に関しては、自分の学校だったら、絶対に一言言いにいきますけどね。学んでいるうちに、おかしいと思うことは、おかしいと言う勇気が少しずつついてきたのでしょうね。ありがたいことです。)
No. 740