高杉晋作の生涯をたどる旅

高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

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東行庵
正式名は「曹洞宗清水山東行庵」
1967(慶応3)年4月14日に永眠した高杉晋作は、遺言に基づき(諸説あり)
この吉田の清水山に葬られました。

 

広大な園内のあちらこちらに顕彰碑や著名人の文学碑・歌碑があります。

幕末ファンにはぜひ一度訪れてもらいたい場所です。

 

東行記念館前に2014年に建立された高杉晋作の銅像

費用は全国の有志による寄付で賄われた。

題字は時の内閣総理大臣、安倍晋三氏。

陶像は山の中腹にあり、見学するには階段を上がっていかねばならなかったが、

この銅像の完成により、脚の弱い方でも気軽に’晋作’に会うことができるようになった。

京都

長州藩邸跡


 

京都市中京区河原町、現在ホテルオークラの建つ場所はかつて長州藩邸があった所。

京都に滞在する藩士、江戸へ向かう途中の藩士らがここに滞在していた。

高杉晋作もたびたびここに滞在している。

1863(文久3)年3月、晋作はこの藩邸で頭を丸めて自らを「東行」と名乗り、

「西へ行く人を慕いて東行く 心の底ぞ神や知るらむ」と詩を詠んでいる。

藩邸は1864(元治元)年7月の禁門の変の際火災で焼失し、その後は幕府に接収されてしまった。

跡地には現在、桂小五郎(木戸孝允)の銅像が建っている。

 

御所

蛤御門(禁門)

1864(元治元)年7月、来島又兵衛率いる遊撃隊がこの蛤御門から御所へ突入。会津藩兵や薩摩藩兵と激しい戦いを繰り広げた。

奮戦むなしく来島は討ち死。御門には銃弾の跡が残っている。晋作はこの戦いには参加していない。

 

堺町御門、鷹司邸跡

蛤御門から突入した長州藩兵の中に、晋作の盟友、久坂玄瑞、入江九一が居た。久坂は御所の敷地内を駆け抜け、鷹司邸まで到達し、

鷹司前関白に嘆願書を提出しようとしたが拒否される。絶望した久坂はその場で自刃する。入江は久坂の伝言を伝えるため脱出を試みたが堺町御門付近で越前藩兵に出くわし、顔を槍で突かれて絶命する。

 

池田屋跡

禁門の変が起こる1か月前、池田屋事件が起こる。宮部鼎蔵らと会合していた吉田稔麿は、新選組に急襲されて絶命する。

これに怒った長州藩が、禁門の変へと暴走することになる。

松下村塾の四天王と言われた高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿の4人のうち3人がこの時期京都で命を落とすことになる。

 

大阪

長州萩藩蔵屋敷跡

大阪の梅田にほど近い 常安橋の南側に長州藩蔵屋敷跡がある。長州藩は参勤交代や上京の際は

三田尻(防府市)から海路でここに上陸していた。

江戸や京都を何度も往復した晋作も、何度もここに来ている。

 

京都

霊山墓地

坂本龍馬ら多くの幕末の志士が眠る霊山墓地

その一角に高杉晋作のお墓がある。

来島又兵衛や久坂玄瑞らとともにひっそりと眠っている。