9月12日・古き軒端のしのぶにも | kan-sukeのアメブロ

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観劇した舞台のことなど書いていました。
2015年9月より、新たにブログを作成し
そちらをメインブログとしております。
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お疲れ様です、ネコヤナギ。。管理人です。


9月12日。

日テレジェニック2013、黒田万結花さんの誕生日です!

おめでとうございます!

先月の全力坂(全力水?)にも出演していましたが、

泳ぎがとても上手なんですよね。


歴史的には、順徳天皇が亡くなった日。

小倉百人一首の100番目、大とりの歌である


『百敷や 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり』

の詠み人、順徳院であります。


父・後鳥羽上皇に可愛がられ、父の強い意向もあり

兄・土御門天皇から皇位を譲られ84代天皇となります。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた承久の乱では

父に同調し、幼い我が子に天皇の位を譲って自らも上皇となり

自由な立場を作って、父の計画に関わりました。

しかし、尼将軍・北条政子の叱咤激励を受けた鎌倉武士が結束し

およそ19万と言われる大軍が押し寄せ、上皇方はあっさり敗北。

順徳上皇は25歳の若さで佐渡へ流され、島を出ることなく

仁治三年(1242年)九月十二日、46歳で波乱の生涯を閉じました。


しかし、順徳天皇以上に波乱の人生となったのが

その息子・仲恭天皇です。

承久の乱の際、上記のとおり父から皇位を譲られましたが

そのとき仲恭天皇、わずか4歳。それも、数え4歳です。

もちろん、単独で天皇の公務が務まるはずもありません。

さらに、承久の乱があっさり終結し父が佐渡へ流されると、

その息子である仲恭天皇は後ろ盾をなくし、

皇位を廃立されることになります。

在位期間、わずか2ヶ月半。

そして、彼は17歳の若さでその生涯を閉じました。

さらに、幼くして即位し在位期間が短かったこともあって

半帝、後廃帝などとされて天皇として認められず、

明治3年にようやく天皇として認められ、仲恭天皇と追号されました。


ちなみに、順徳天皇は父・後鳥羽上皇以上に

鎌倉幕府打倒の意思が強かったとされていますが、それは

祖母に平教子(教盛の娘で、清盛の姪にあたる)がおり

周囲に平家の生き残り、関係者が多かったからではないか、という

説があります。