ミスターH その6 | Final Notice
『この車種なら今、安くできるのがちょうど1台あるんだ』
Nさんがノートパソコンを操作しながら見積書を作成する。小型のプリンタから印刷された見積書の金額はHと私が当初想定していた金額よりかなり安かった。

Hと私は素直に驚き、Nさんは頼り甲斐のある笑顔を見せていた。

どのようなオプションをつけて見積書の作成をしたのかを、Nさんがとても丁寧に説明してくれたので、Hの横に座っていた私は、自分の買い物でもないのに、思わずNさんの話に聞き入ってしまった。おそらくNさんは、『大きな買い物なので、詳細に至るまで、事前にきちんと説明しておかないといけない』との想いから、丁寧に説明してくれているのだろう。

ただ…車に掛ける保険の説明を聞いているとき、不覚にも私はホンの少しだけ眠気を覚えてしまった。コレは決してNさんの説明が退屈というわけではない。そもそも保険の説明など、誰がしても退屈なものなのだ。Nさんもそれは承知だが、だからといって説明しない訳にはいかないので、頑張って説明してくれているのだ。

私はそう思い直し、少しの眠気を感じながらも説明を聞いていた。

ところがふと隣に座るHの顔を見上げると、既に瞼が半分まで閉じている。戦闘意欲も感じられず、睡魔に誘われるがままに眠りに落ちようとしているではないか。

私はテーブルの下で組んでいた足を組みかえる際、偶然を装って故意にテーブルに膝をぶつけて『ゴンっ』と音を立てたりしながら、Hがなんとか目を覚ますように努力していたが、その甲斐むなしく、Nさんの説明が終わるまでにHは何度か眠りに落ちていた。

Nさんが少し席を外した際、自分も少し眠くなってしまったことに反省しつつ、

『なんだか、学校の授業を聞いているみたいだったな…』

と言うとHも

『ホントだよ…』

と言ったので2人でクスクスと笑った。

Nさんが戻ってきて『じゃ乗るか!』と言うと、今度はHも少し乗る気になったらしく、重たい足取りながらも試乗車に向かった。

試乗車の運転席にH、助手席にNさん、後部座席に私が乗り込んで、Nさんが簡単に運転席周りの説明をしてくれたのだが、その時点でHはかなり弱気になっており、挙句には『ケイタロー…運転変わって~』などと言い出した。

私はコレを聞いて漫才を見ているかのように可笑しくなり、思わず笑ってしまった。先程の『運転できるよ!バカにするな!』は一体なんだったのだ。その後笑いをこらえながら、

『俺が運転したって仕方ないだろ! お前が車買うんだから! それにさっき運転できるって言ってただろ!』 とHを叱咤し、なんとか運転させようとした。

NさんはHに対し

『ベルトを締めて』
『エンジンを掛けよう。そう、そのボタンを押して』

と冷静に指示を出していた。Nさん、さすが。いろんな人に車を売っているんだろうな…。きっとHと似たようなお客さんにも車を売ったことがあるのだろう…。

ところがこの後、車内が一瞬凍りつく出来事が起こった。

エンジンが掛かり、Nさんが

『じゃ、ブレーキ踏んで…』

と言った直後、凄まじい音を立ててエンジンが空転した。ブレーキではなくアクセルを踏んだのだ…。Nさんも私も、さすがに度肝を抜かれた。これは相当慎重にならなければいけない。

それでもNさんは一瞬の内に気を取り戻し、冷静にHに指示を送り続ける。私が出来たのは、後部座席で黙って固唾を飲むことだけだった。



ブレーキを踏みなおし、ギアを入れ、ゆっくりと車が走り出す。公道に出てしばらく走ると、Hも少し感覚を思い出してきたようだ。最初はぎこちないかも知れないけど、慣れの問題なのかもしれない。Hが車を買ったら、しばらくは横に乗ってあげないといけないだろうな…。

Hが『この後別の約束がある』と言ったので、Nさんが運転を代わり、Hの待ち合わせ場所まで行った。Hは車を降りると、礼の言葉を言って振り返り、私にデカい背中を向けどこかに歩いていった。

Nさんと私の2人になった車内でNさんが開口一番、

『さっきのブオーン(エンジン音)はビビッたな…(笑)』

『ビビりましたね…。ちょっと心配…。保険だけはちゃんとしたヤツ、掛けておいてあげたほうがいいかも知れないですね…』

『そうだよな~…、多分最初はぶつけたりするだろうから、保険だけはもう一回見直してあげないとな~…』

Nさんは試乗車に私を乗せたまま自宅近くまで送ってくれた。Hのために時間を割いてくれたNさんに感謝を伝えて私も車を降りた。

運転はちょっと心配だけど、Hも嬉しそうにしていたので、私自身も嬉しかった。このまま話が滞りなく進めばいいのだが…。どこかに不安を残しつつ、今日のところはこれでよし、と冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して喉に流し込んだ。


つづく