まあ、そんな時代にいましたので、

物のありがたみというものに関して

鈍感だっのは否めません。って

なんのことやらですよね。


世の中舐めきって転職しようとしたバカが

次に就職できたのが

世界屈指のコンサルタント会社であり、

同時に公認会計士、税理士集団でもあった

世界的企業だったりしたら

おまけに世の中株価が上がる一方の

好景気とくれば今の人たちにとって

こんなつまらない話もあったもんじゃないでしょう。


私の若い頃はそんな滅茶苦茶な時代だったのです。

物は古くなったら修理するより買い直せ、

という考えが定着してしまったのが

この頃で、今に続く悪い習慣だと思います。


この会社、要するに会計マネジメントの

プロフェッショナルで、

日本の大企業に乗り込んで

お宅の会計システムを改善して差し上げよう、

というたいした会社で、

日本に上陸したばかりの頃だったので

私のようなものでも入社できたのでしょう。


とにかく社内あちこちで

日本語と英語のミックスされた会話が

飛び交い、パートナーと呼ばれる

重役が新入社員のごとくからかわれたり、

上下関係のよくわからん会社のように

見えながら、確実に守らねばならない

ルールは、あったかな?

と言うほどオープンでした。


仕事の内容も誰が何をしているか

ハッキリ分かれてそれ以上はみ出ることなく、

他人の領域を侵さない、というのは

当然でしたが。


時代がら、というのか、当時は

何かというとパーティ、パーティで

ほぼ毎週末何かしらのパーティを開催してました。

しかもたいていパートナー主催の場合は

高級ホテルのホール。

女の子はどこに用意してあったのか

洒落たドレス姿の子も。

それ以外でもパーティ。

なんでもよかったんです。

お茶飲み感覚とでもいうのでしょう。

宴会感覚よりもっと軽いノリで

渋谷でワインに生牡蠣、て言う感じでした。

別に不良の集まりじゃないですよ。

当時、1980年台も中頃になると

田舎者が銀座、六本木歩くのは

当たり前のこと、都会派は却って

どこか違う遊び場を探しているうちに

都内は次々に田舎者に侵食され、

原宿だなんだで変なブームが起きるのは、

もうちょっと後かな?


まあパーソナルなコンピュータシステムを

IBMが開発し、導入されたのを

その会社の総務の女の子一人に

丸投げされ、2ヶ月やるからマスター

するよう指示された姿も見ました。

私には超高速の大型印刷からバインドまで

自動のでかい機械があてがわれ、

全部大企業の会計書類玉から外に漏らすな、

と言う指示。要するにエリート集団の

作成したデータを

専門部署のお姉様方が当時の

最新式のタイプライターで打った

アメリカ仕様の会計書類の

社内製本ということになります。

それらと自社開発のシステムの

マニュアルとセットで、

一仕事何千万だそうです。

約40年前で。


それ以外の時間は好きに使っていました。

仕事の時は電話で呼ばれます。

総務ですから、コピー機の調子がおかしい、

とかそういう電話もあります。

かと思うと同じラインで、

今夜パーティ行かない?

だったりします。


そんなある夏、夏真っ盛り、

丁度短い夏休みの夕方

テレビから日航機の行方がおかしい、

長野の山の上を旋回しているようだ、と言う

ニュースが流れます。

国内最大の航空機事故、

日航ジャンボ機墜落事故でした。

日本から大歌手が一人いなくなってしまった日

でもあります。


その秋頃、会社に外部から

私宛の電話が入ります。

珍しいことでした。

誰だろうと思ったら前職の、

金融機関の同じ支店にいた女性でした。

勤務時間に何事だろうと思ったら、

私が行員時代の財形貯蓄が残っており、

その処理をどうするか、と言う内容。

すぐ思いつかなかったのと、

半分プライベートなことと感じ、

勤務時間後の電話でも良いか聞くと、

それなら直接会おうと言う話になりました。

今回はここまで。