さて、うろうろしてても仕方がないので、

そろそろ若年生パーキンソン病患者、

社会人に挑戦!

というつまらないお話を始めようと思います。

と言ったって、

何度か書いたと思うけど

(書いたな?)40年も前、大昔の話なんですけど

どうなのかなあ。


つまりあんまり昔昔、って言うほど

昔かよ、とかえー、やっばりそんな昔

興味ない、とか思われてるかもしれない。

要するに結構中途半端な昔な訳ですね。

まあいいや、時としては

1980年代、当時私は若かった。

当たり前だ。学生の頃の話はちょこっと

書きました。


で、とりあえずはどうも不調だと感じつつも

健常者として大卒の新社会人として

世の中に飛び出しました。


卒業後すぐに待っていたのが新入社員研修。

当時の私は世の中舐めてました。

中学生の頃目覚めた一夜漬け最高能力。

これに限界なしと思い込んでいたのです。

これ何かといえば、大抵のことなら

集中すれば一度で記憶してしまう、

受験専用のいわばポンコツチートみたいなもんで

大学受験の頃から、自分の興味の薄いものには

通用しない感じはありましたね。

通用してりゃ、国立の名門入ってるっての。

詰まるところ大学受験の時も

たいした受験勉強らしいことはしなかったと言うことです。

どうやら傍目には真面目そうに映っていたようですが私は生来の怠け者だったのかもしれません。


そんなのが社会に出て、

どう思います?

役に立つと思いますか?

まあとにかく私は入社した先で社員研修を

受けることになったのですが、

実はこの会社からはこの研修に入るまでに

そろばんをマスターしてこい、と言う宿題が

課せられていたのです。

40年前とはいえ、入社時そろばん必須って。

そこは相互銀行と呼ばれた、

今はもう存在しない金融機関でした。

別にそんな特別な組織ではなく、

金融機関として独立する際の機構の違い、

それだけです。

そして立ち位置としては、信用金庫と地方銀行、

これの間?くらいの規模で、当然のことながら

各社それぞれ人員も会社としての規模も

様々でした。

つまりある信用金庫より小さかったり、

逆に下手な地銀など相手にならない規模の

会社もあった訳です。

当時は信用金庫としてはJ信用金庫が最大手

だったのかな?

私のいた会社はそこに勝つか負けるか、と言う

預金高でしたが、後でわかったのですが、

上層部の不正というドラマチックな

終わり方をしていました。

変な書き方をしていますね。

そうなんです。

社会を舐めきっていた私は、1年も 経ずに

辞めてしまったのですね。

今から思えば、後に上が下手を打とうが、

腐っても金融機関の社員というものの価値すら

把握できていなかった馬鹿者なのですが、

その時はそれが一番と思って考えた末の

辞職願でした。


思えばいい職場でしたよ、私の配属された支店は。

銀行さんでしたから、みんなパリッとして、

女の子はほとんど若い子ばかりで

概ねみなかわいい。

先輩たちもイケメンが多く、

仕事を厳しく優しく教えてくれました。

当時は今ほどシステムが発展していません。

なんせスマホどころか携帯電話、

そしてパソコンすらない世界です。

よくあんな中で金融機関やってましたね。


さてと、意外と長くなってしまいました。

難病患者まで辿り着いていませんが、

また次回。次回は2社目、外資系ですよ。