邱永漢の『口奢(おご)りて久し』 | 北海道発・生活問題を考えるブログ

邱永漢の『口奢(おご)りて久し』

 これまで配信してきたまぐまぐメール『栄養士は本を読め』をアメーバブログに再録しています。

 今回は、<2014年9月1日号>の邱永漢『口奢(おご)りて久し』です。


口奢りて久し/中央公論新社

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 邱永漢(きゅうえいかん)は直木賞作家でもあり、400冊以上の本を残していますが、「お金もうけの神様」あるいは「株の神様」として知られていました。作家というよりも、経済評論家、経営コンサルタント、実業家の方がなじみやすいと思う人が多いかもしれません。

 邱永漢の食に関する本のなかでは『食は広州に在り』があまりにも有名ですが、今回取り上げるのは、別の本です。『食は広州に在り』から半世紀ほど経て書かれた、著者が70代の頃に出版された食に関するエッセイ本です。2000年1月から2004年5月号までの『中央公論』に連載されていました。
 
 邱永漢の本を紹介するならば、当然『食は広州に在り』だと最初は考えていました。しかし、あらためて再読してみると難しい漢字が多い。中国読みのフリガナがたくさん打っている。

まぐまぐメールでは変換できない字が多用されている。こうした理由からなにか別の本はないかと探して見つけたのが本書です。

 著者ご自身も『食は広州に在り』は「はじめからおしまいまで、漢学の素養がいかにあるかを一生懸命見せびらかしていますもの」と糸井重里との対談(『お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ』)で述べています。

「何をきかれても即答ができるほどの料理の知識と故事来歴の講釈に不自由はしな」いと自ら書いているだけあって、『食は広州に在り』では、中国食文化の奥深さを垣間見ることができます。

 一方、本書は中華料理だけでなく日本料理にもフレンチにも言及しています。さらに食べものそのものに関することもあれば、経済評論家としての視点から言及したものもあります。

ときには食通として、ときには世界中を飛び回る実業家としての見聞の広さをもとにして、またレストラン経営をアドバイスする立場からも書かれていて、食べものを題材としている社会批評的な食エッセイとなっています。

 食べ歩きのテレビ番組を引合いに出して、味のわかる人が少なくなったと嘆きます。なんでもおいしいという芸能人の味覚オンチぶりから、厳しい指摘もしています。以下にその一部を引用してみましょう。青字が引用部分。



味のプロのレベルが上がっているのに、味に対する一般大衆の要求は逆に下がっているから、味のわかる人とそうでない人の二極分化はいよいよ激しくなる。

それでも味のレベルの高いレストランが結構、ハヤるようになったのは何を食べてもおいしい人たちが大挙して押しかけるようになったからに違いない。タレントの食べ歩きはこうした光景にふさわしい取り合わせと言えないこともない。

 進化とは、違った角度から見れば退化のことだから、これは無理からぬことかもしれない。ちょうど自動車が普及すれば足が退化するように、自分で料理をする必要がなくなれば、舌も退化する。アメリカ人がその先端を切っているが、日本人もやがてそのあとを追うことになろう。

だが、そうなっても無形文化財に声援を送るのが文明国の美風良俗であることに変わりはないだろう。

(邱永漢『口奢りて久し』中央公論新社、2004年、21ページ)

 若い世代がインスタント・ラーメンとハンバーガーで育ち、家庭内で味の訓練を受けるチャンスが少なくなってしまうことを危惧しています。

 数多い料理方法もあらゆる食素材にも精通していた著者は、「値段は安くともおいしい料理のできる素材はいくらでもある」から「そのへんのところは頭を使ってコストダウンをはかること」を勧めています。

 「これから料理屋をうまく経営して行こうと考えている人にとっては研究に値する学問」ととらえています。

 グローバルな視野をもち国際事情にも明るい、しかもわかりやすく切れ味の良いエッセイ。スッキリする読後感が得られる一冊です。



 これまでのまぐまぐメールを再編集して新書にまとめています。↓


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