初任給の日と言う事で。 | ◆完成品屋さんによるblog◇模型と猫◇組立彩色工房 岩崎◆

初任給の日と言う事で。

給料日に真っ先にすることは?

▼本日限定!ブログスタンプ

            あなたもスタンプをGETしよう

私が就職したのが昭和55年、1980年。当時の手取り初任給は確か、七万五千円。
色々引かれてそんな額だったと思う。総額で10万程じゃなかったかと。
当時はモノの物価も安かったからね。
 
バンダイのガンプラが1stモノなら300~500円、MSVで500~800円。
タミヤの戦車で1000円、グンゼの塗料で100円。
缶飲料も自販機・店舗でも100円。
うろ覚えだが、マックのバイト代が1時間で350円だったかと。
 
しかし、今では初任給もあの頃とは段違いだが、要求される仕様があの頃とはこれまた大違いだろうから、大変さは比べ様もないだろうな。
今の仕事の大変さは四半世紀前に企業勤めを引退した者としては知り様が無い。
 
昭和55年の頃の高卒出だと、この程度の月給額が普通だったろうと思う。
同期の他9名で不満を言う奴は居なかったからね。
辞めて行く理由は給与ではなく、女子は基本この頃は腰掛け就職。今と違い「まだ」あの頃は女子の殆どは結婚相手が見つかればさっさと辞めると言う人の方が一般的だったからね。
大体三年から五年で婚約者を得れば辞めて行った。
そうで無いなら、親が病に倒れ、家業の手伝いをと言う者、今の仕事以外にやりたい事への道筋を密かに啓開してから出て行きましたから。
色々有って同期のメンバーも10名中五年経つ頃までには六名が色々な理由で退社しましたね。大阪に馴染めずに辞めた人、他にしたい仕事を見つけた人、元々親の会社に入る心算だったが、三年は他所の会社で下積みしろと言われて来てた人、親の病気で家業を継ぐ為に辞めた人。
男子二名、女子二名と残り、89年迄には女子二名も辞めた。
で、私は転職も視野に入れて何が出来るかを考え出してたのもこの頃。
就職当時から担当してた写真植字が「お先の無い仕事」確定を90年に実感したから。当時科長として他社から来た人が就任時に言った事。
実際、90年に会社は社屋を本社の近くに移転した際にそれ迄の主力の和文タイプライターからワープロへ機種変更。
輪転機からオンデマンド印刷に対応する為の試験機を導入したりと変容への準備を始めていたからね。
まだこの頃のワープロは重い鉛の塊を打鍵するよりは腱鞘炎に成らないから、女子社員の離職性は低く成り、五年程度に伸びたと思う。
95年頃にはマッキントッシュのパソコンの万能性を試す為に三名を要する試験課が出来。版下の電子化への準備を始めてた。
 
それまでの印刷は、和文タイプライターが一字の単価が一番低く、鉛の文字が少々欠けても交換が無かった。読める状態なら更新しなかった。インクリボンを叩く為に鮮明さに少々難ありなのがタイプライター。
それに比べ鮮明でキレイなのが写真植字。
故に単価が高い写真植字は、官庁辺りのお金持ち企業が採用してた。
しかし、それがワープロになると鮮明さは写植と変わらない上に時間経過と共に色んなデザイン文字も普及し始めて写植、和文タイプライターが不要となって来た。
で、タイプライターが先に逝き、2000年迄には写植も不要と成るのが明確化した。
だから97年段階で組版課で一番の古参と成った私が左遷対象に成るのも自明の理。
この頃残業出来なくなりつつ有ったけど、手取りで確か17万程。年々給与も上がっていたから倍には成って居たね。
しかし、以後の世代さんは伸び悩み期突入だものな。
昭和の経営者から二代目や他所からの成り上がりで経営観の違う奴が社長就任とかで社員より企業益マシマシ派と株主重視派とかに変わられて、月給上がらず要求だけ無駄に上がると言うのがこの四半世紀だものな。
日本にマトモな経営者が増えないと社員は社畜と自虐する。