これまでのあらすじ

 かくして、俺たちは南へ向かった。これまで通ってきた道を戻るだけだ。再び丸一日かけて砂漠を縦断する。俺たちはあまり喋らなかった。あれほど憧れ、目指していたサーフポイントでのサーフィンが憧れたものでなかったという事実を口に出したくなかった。つい数日前まで大切な未知であったものが期待はずれの既知になってしまった悔しさも、次のポイントの波への期待も、それまでの自分達の信念から口に出すのが憚られた。日が暮れそうになっても、ラパス(La Paz)は通過した。もう波の無い場所に用は無い。
早くトドス・サントス(Todos Santos)に戻りたかった。
 日没ギリギリでトドス・サントスに着き、またあのモーテルに。少しここで落ち着こうと、3泊で契約したがまたしてもデスクエントは断られた。この町は屋台もレストランも多く、生活しやすい。
俺たちはとあるタコス屋に入り浸った。
ここの親父の「ウチは調味料は一切使わん!」「客がいれば店は開く」といった粋なスタンスが好きだった。ビーフタコスひとつで100円くらい。テーブルにはアボガドのペーストやキュウリ、キャベツ、サルサ・メヒカーナなどが置いてあり、確かにそれだけで充分な味。夜中でもやっているのはここだけで、若者たちもto goで買いに来る。

 翌日、ロス・セリトス(Los Ceritos)へ。ここも、他のポイントと変わらず国道からオフロードを数km走っていくのだが、着いてみるとビーチパークのようで海の家があったりして人も多く湘南のよう。波のサイズはある。
  
風が強く、掘れていてかなり速い波。でもビーチなのでパーリングしてもあまり恐くは無い。
ロス・セリトスのビーチバー

 トドス・サントスでの4日間はほぼサン・ペドリト(San Pedorito)で入った。午後はロス・セリトスへ行き、割れていれば入る。夜はバーなどへ行った。
  
 サイズはコンスタントにあった。しかし贅沢を言うようだけど俺の好きな波ではなく、毎日変わりばえの無いコンディションが続く。サイズのわりに速すぎる。俺のスキルが追いついてないだけとも思ったけど、よく見るとみんなショット・ガンを使っている。そして段々とダンパー気味に。わがままにも、タイトなコンディションは飽きやすい。次第に俺たちはまた次の波を求めるようになった。再び南へ、ロス・カボスへ向かうことにした。

 カボ・サン・ルーカス(Cabo San Lucas、「サンルカス岬」)だけは行きに一回も止まらずに通過した。バハ・カリフォルニアでイチバンにぎやかな街だろう。俺たちに似つかわしくない高そうなホテルやレストランも並ぶ。しかしメーン・ストリートから数ブロックも入ると地元民の生活の場になる。俺たちはそんなエリアのオシャレな宿に滞在することにした。
2つ返事でデスクエントに応じてくれる。
 カボ・サン・ルーカスは何しろバーが多い。ダンスホールがある大規模なバーから裏路地のひっそりとしたバー、チェーン展開しているバー。日本ではそんなに気軽に入れる店は少ない。せっかくなので色々と飲み歩くことに。
日が出ているうちはRip's Barに。
カフェのような感覚で飲めるオープンカウンターの店で、買い物などで歩き疲れるとセルベッサを一杯だけ飲みに行った。18:00以降は若いバーテンダーの担当になり、バイ・オーダー制になる。カボ・ワボ(Cabo Wabo)はヴァン・へイレンのメンバーがオーナーらしい。
この街で最もバブリーなバーだ。
ゆっくり酒を飲みたかった俺たちは一杯で出た。
  
マティーニ・ジャングル(Martini Jungle)はショッピング・モールの中にあって、夜中は辺りではこの店しか開いていない。普段ビールしか飲まない俺だが、せっかくなのでここで初めてマルガリータを飲む。このとき、ショート系のカクテルにチェーサーでビールをつける飲み方を始める。ここのバーテンダーは物静かで、中規模の店にしては頑固な感じがよかった。
 そしてサンルーカス最後の夜に見つけたのがSolomon Houseだ。
裏路地にある小さな店で、誰も入っていなかった。
カウンターに座るとバーテンダーは優しく笑いかけてくれた。マルガリータを頼んだ。彼はまだ見習いだと言った。途中からオーナーが出てきて常連と飲み始める。彼もまだ若い。ジャングル・バーの系列店で修行をしていたらしい。彼らはとても歓迎してくれた。普段から客が少ない、こじんまりとした店なんだろうと思っていたら、通りがかる若者達がやたらオーナーに声をかけてきて、軽く話していく。車から大声で話しかけて、通りにクラクションが響くことも。友達が多い人なんだろう。
 トドス・サントスのタコス屋の親父も、サン・フアニコのレストランのおばちゃんも、この土地で出会った全てのメキシコ人は本当に俺たちにフラットに接してくれた。結局メキシコでは一回として日本人に出会わなかったんだけど、メキシコの人たちは珍しいはずの俺たちを見ても特に外国人扱いせず、それでいてスペイン語が出来なくても、俺たちにわかるように身振り手振りを使って会話をしようとしてくれた。
 ただどこの店に行ってもバーテンダーたちはみな英語が上手かった。彼はL.Aの高校に通っていたらしい。彼らの歓迎の気持ちは段々と伝わってくる。カウンター越しに彼も腰かけ、色んな話をしてくれる。仲間とスコーピオン・ベイに行ったときの写真を見せてくれる。パソコンから店の音楽を流していて、この曲は好き?どんなの聴きたい?だとか俺たちに合わせてくれる。そしてオーナーも時々こっちのカウンターに話しに来て、酒を奢ってくれる。「心配しないで、俺のオーダーだよ」
←綺麗な色付けをしたKamikaze
カウンター越しに酒のつくり方を指導する場面も。
彼のカメラで写真を撮ろうと言ってきてくれた。
バーについての異論はまた別の機会にでも。結局閉店までいたが、気分が良かったのでもう一軒ハシゴ!Marine Jungleへ。先のMartini Jungleの姉妹店だ。ここもモールの間の広場にあるオープンカウンターの店。カップルでバーテンをやっていて、さすがに時間も遅く他に客もいない。辺りは静かだった。気さくな二人は日本の音楽を教えてくれ、と言ってくる。ドライブ中にGLAYにはまっていた俺たちが(海外へ行くと決まって夏メロにはまる)日本一のバンドだ、と教えるとYoutubeで探してなんとHappinesをかけてくれる。ロスカボスの真夜中にGLAYが響いた数分間だった。
 

 ロスカボスでもサーフポイントを色々と探したが、都会ゆえに探しにくい。面倒くさくなり、コスタ・アスール(Costa Azul=青い海岸)へ行った。このビーチには3つポイントがある。ビーチと言ってもサン・ペドリトと同じく、少しでも海へ入ると岩場になるんだけど。その中でもザ・ロック(The Rock)と呼ばれる右側のアウト・ブレイクへ。ビーチの右端からエントリーして崖の下までパドルしていく。少し遠いが、手前ではブレイクしないのでゲッティング・アウトはあまり苦ではない。ザ・ロックはその名の通り岩場である。アウトにイチバン大きな岩があり、ハイタイドでも海面から露出している。うねりがこの岩の高さを越えたらパドルの準備。ピーク時には胸くらい、セットは肩前後あった。トロめでゆっくりと両側に割れていく。ショルダーも充分張っている。いい波だ。ただし、他にも大きい岩は隠れているので、避けながらライドする。これも水が綺麗だからできること。そして特にレフトには岩が多い。パドルの最中に岩に手が当たることもあって何箇所か傷になった。ここは初日で気に入って、以後3日間ずっとここで入った。メキシコ出国前日のラスト・サーフもここ。


その最終日、あとは一晩寝るだけなので空港に近いサン・ホセ・デルカボ(San Jose Delcabo)へ移り、前とは違う宿に。行きに立ち寄って色々情報をくれたサーフショップPuebloに今回のトリップの報告をしに行ったのだが、残念ながら前のスタッフは風邪で休みらしく、カルロス(Carlos)というオーナーが出てくる。彼に、ここへ着いた日に色々と教えてもらったこと、やがて俺たちはその情報を頼りにスコーピオン・ベイに辿り着いたこと、そこには期待した波がなかったこと(ここで初めて口に出した)、その後も色々な波に出会えたこと、明日には日本へ帰ること、そして病気の彼に感謝していることを伝えた。「彼にはきっと伝えるよ。次はいつ来るんだい?笑」と、ショップのステッカーをくれた。

 US$もN$も使い切ってしまっていた。夕飯さえ外で食べなければもう換金の必要も無い。そこでキャンプの残りの飯で腹を満たすことにした。これがまずかったのだろう。
問題の「最後の晩餐」だ。
その日は荷造りをして早々に寝た。(そもそもサンホセは夜遊べる街ではない)
ついに帰る日。久々のトラブル。
しかもかなりレベルが高い。明け方目覚めるとどうも腹の調子が悪い。下痢気味。トイレに行き、また寝ようとすると更に痛くなる。段々と吐き気も。腹の痛みは増すばかりで、嘔吐を繰り返す。胃の中にろくにモノも入っていないので胃液しか出なくなる。頭も痛くなり、意識は朦朧と。俺だけ置いていってくれと言おうとしたのを覚えている。救急車を呼んでくれと言おうとしたも覚えている。そうなったら日本へは帰れないだろう。先輩が準備をしているのを見て言うのをやめた。歩くのも精一杯でなんとか先輩に荷積みをしてもらう。とてもじゃないが運転も出来ない。空港についても、言葉を発することに一苦労。ついに車椅子を借りることに。全て先輩に任せてしまい、なんとかチェックインを済ませゲート前で横になる。なんとかアトランタへ向かうことに・・・。
 おそらく最後の食事に当たった。行きと同じく2日かけて成田へ着く。帰国しても数日間腹痛が続いた。一人だったらマジでメキシコに墓が立っていただろう。