「李陵」

中島敦

戦いながら南へ行くこと、さらに数日。

ある山谷の中で、漢軍は一日の休養をとった。


負傷者もすでに沢山いる。


李陵は全員を点呼して、被害状況を調べた。

そして、軽傷の者にはいつもどおり兵器を取って闘わせ、重傷の者にも仕事を与え、重体以上の者だけを車に乗せて運ぶことに決めた。


それ以上の輸送力がないため、死体は全て荒野に遺棄する他なかった。



この夜、李陵は偶然ある輸送車の中に、男の服をまとった女を発見した。


全軍の車両を調べたところ、同じように潜んでいた女が十数人いたことが分かった。


かつて、関東の盗賊が襲撃にあったとき、その妻子が追われて西辺に移り住んだ。

彼女らの中には貧困に苦しみ、それから逃れるために辺境守備兵の妻となった者、あるいは彼らを相手にする娼婦となった者もいる。


兵車の中に隠れて、はるばる漠北まで来たのは、そういう連中である。


李陵は軍吏に、彼女らを斬るように命じた。


彼女らを伴い、連れて来た兵士について、触れることなく。


渓間に出された女どものかん高い号泣がしばらくつづいた後、突然それがフッと消えていくのを、テントの中の将士達は、静かに聞いた。



 翌朝、先日に寸前まで追い詰めた敵を迎えて、漢の全軍は思いきり快戦した。


敵の遺棄死体、三千ほど。


連日の執拗なゲリラ戦術に、イラだちくじけていたため、士気が奮い立っている。


次の日からまた、もとの予定の道に従って、南方への退行が始まる。


匈奴はまた、元の遠巻き戦術に戻した。


五日目、漢軍は、砂漠の中で時たま発見される沼沢地(しょうたくち)の一つに踏み入った。


水は半分凍り、泥もスネまで沈む深さで、行けども行けども、果てしない枯れた草原が続く。


風上にまわった匈奴の一隊が火を放った。


北風は炎を煽り、すさまじい速さで漢軍に迫る。


李陵はすぐに近くの枯れ草に火を放って、かろうじてこれを防いだ。


休息せず、一晩中、泥沼の中を歩いた後、翌朝、ようやく丘陵地に辿りついた。


と思ったとたんに、先回りして待ち伏せていた敵軍の襲撃に遭った。


結束感のない、入り乱れた殴り合いである。


騎馬隊の激しい突撃を避けるため、李陵は車を捨てて、麓の林の中からの戦闘を開始た。


林間からの攻撃はかなり成功した。


たまたま陣頭に姿を現わした単于(ぜんう)とその親衛隊とに向かって、同時に銃で乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青衣をまとった君主はたちまち地上に投出された。


親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬

すく

い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。


乱闘の後、ようやく執拗な敵を撃退できたが、確かに今までにない難戦であった。


遺された敵の死体は、またしても数千をを超えたが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。


 この日捕えた敵兵の口から、敵軍の事情の一部を聞き出せた。



それによれば、敵は、
南に続く山谷で一度攻撃し、平地に出てもう一戦して、それでも漢軍を破れない、となったその時にはじめて、兵を北に戻ろう』という作戦に決めたらしい。


これを聞いて、漢軍の幹部たちの頭に、『もしかしたら助かるかもしれない』という希望のようなものが微かに湧いた。

 翌日からの敵軍の攻撃は、本当に猛烈だった。


捕虜が言っっていた最後の猛攻というのを始めたのであろう。


襲撃は一日に十数回、繰り返された。


手厳しい反撃を加えながら、漢軍は徐々に南に移って行く。


三日経つと平地に出た。


平地戦になると倍増する騎馬隊の威力で、敵軍はがむしゃらに漢軍を圧倒しようとしたが、結局またも二千の死体を遺して退いた。


捕虜の言葉に偽りでなければ、これで敵軍は攻撃をやめるはずである。


たかが末端の兵士の言葉を信頼できるとは思わなかったが、それでも幹部一同は、少しホッとした。

 その晩、漢の軍侯・管敢(かんかん)という者が陣から抜け出して、匈奴の軍に逃げた。


彼は前夜、任務の手を抜いために皆の前で罵倒され、鞭を打たれた。


それでこの行動に出たのである。


先日、溪間で斬首された女どもの一人が、彼の妻だったと言う。

彼は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。


そのため、敵陣に逃げると単于の幹部達に、伏兵を恐れて引上げる必要はないと説得した。

 

「漢軍には後援がない。


矢もほとんど尽きようとしている。


負傷者も続出して、行軍は行き詰まっている。


漢軍の中心は、李陵と校尉・成安侯韓延年(せいあんこうかんえいねん)の率いる各八百人で、黄色の旗と白の旗が奴らの印だ。

明日、奴らに集中攻撃をして、これを破ることが出来れば、他は簡単に壊滅するであろう。」などと言ったらしい。


単于は大いに喜んで、管敢(かんかん)を厚くもてなし、ただちに撤退命令を取消した。






 

中島敦

第二次世界大戦前に、教員勤務のかたわら活動した小説家

本名:中島敦

誕生日:1909(明治42年)55

死没日:1942(昭和17)124

出身:東京府東京市四谷区(.東京都新宿区四谷三坂町)

代表作:「山月記」(1942年)       

            「光と風と夢」(1942年)

            「李陵」(1943年)





*このブログは、古文を全く勉強したことの無いJKが、辞書と感覚を頼りに翻訳して書いたものです。

ですので、原文とは全く違う意味の表現をしてしまう場合もあると思います。

少しでも、

「この意味ちょっと違うなぁ」

「この表現違和感あるなぁ」

と思ったら教えてください!!

よろしくお願いします!