正倉院(しょうそういん)の由来は、奈良・平安時代の官庁や大寺には、重要物品を納めるための倉庫である「正倉(しょうそう)」が建てられ、多くの正倉が集まった区画を「正倉院」と呼んでいた。しかし、各所にあった正倉は、時代の流れとともにいつしか失われてしまい、東大寺正倉院内の正倉一棟だけが奈良時代から今日まで残った。これが正倉院宝物である。現在は、宮内庁が正倉と正倉院宝物の保存・管理を行っている。

奈良時代の天平勝宝八歳(756年)に聖武天皇の七七忌の忌日に、光明皇后は天皇の冥福を祈念して、遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の盧舎那仏(大仏)に奉献された。光明皇后の奉献は五回におよび、その品々は正倉(現在の正倉院宝庫)に収蔵して、長く保存された。これが、正倉院宝物の起こりである。

正倉院宝庫は、檜造り、単層、寄棟本瓦葺き、高床式で、間口約33m、奥行き約9.4m、床下約2.7m、総高約14mの大きさである。

倉は、三倉に仕切られており、北倉、中倉、南倉と呼ばれ、北倉と南倉は大きな三角材(校木:あぜき)を井桁に組み上げた校倉造り(あぜくらづくり)で、中倉は北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁として、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造り(いたくらづくり)であり、内部は二階造りとなっている。

 

   所在地 : 奈良市雑司町406

 

大仏池

 

 

 

正倉院「正倉」外構の参観門

 

東宝庫

正倉の東南に建っている宝庫で、昭和二十八年(1953年)に建築されたもの。また、正倉の西南には西宝庫が建っている。

 

 

 

正倉(国宝)

宝庫の建築年時を記録した資料はないが、天平宝字三年(759年)3月以前に出来上がっていたことが確実とされてきた。

 

正倉(国宝)

正面向って右から順に、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)と称され、北倉には聖武天皇の遺愛品の品々を納め、中倉・南倉には東大寺の年中行事用の仏具などを納めていた。

 

 

 

 

 

 

正倉の創建時(奈良時代中期)の瓦および修理時(江戸時代天保期)の瓦。

 

 

 

東大寺の講堂跡

大仏殿の北側の芝生に、大きな礎石が整然と並んでいるのが東大寺の大講堂のあったところ。

 

講堂跡

 

講堂跡

 

大仏殿

 

 

転害門(国宝)

天平時代の東大寺伽藍建築を想像できる唯一の遺構。

 

転害門(国宝)