知恩院(ちおんいん)は法然上人が、膨大な一切経の中から阿弥陀仏の御本尊を見出し、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)を布教し、法然上人43歳の春、承安五年(1175年)この地、吉水の地に草庵を結び、浄土宗を開かれた。

その後、建永二年(1207年)、弟子の不祥事により、上人は四国流罪となり、5年後の建暦元年(1211年)に帰京できた。しかし、吉水の草庵は荒れ果てていたため、今の勢至堂のある場所の大谷の禅房に住んだ。翌年、病床についた法然上人は、弟子・源智の願いを受、念仏の肝要は「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を残し、建暦二年(1212年)80歳で法然上人は入寂された。

文暦元年(1224年)源智上人は、荒れていた墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、影堂、総門を建て、知恩教院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世とした。知恩院の名は、上人報恩のために行った知恩講に由来するとのこと。

 

江戸時代、浄土宗を信仰した徳川家康公が、当寺を京都における菩提所と定め、寺領が拡大し大伽藍が築かれた。

 

   宗 派 : 浄土宗

   御本尊 : 法然上人、阿弥陀如来

   所在地 : 京都市東山区林下町400

   電 話 : 075-531-2111

 

円山公園からの入口

 

三門(国宝)

元和七年(1621年)徳川2代将軍・徳川秀忠公の命で建立されたもの。

 

 

 

阿弥陀堂

当初は、勢至堂の前に建立されたが、宝永7年(1710年)に現在地に移築された。明治に荒廃が進み、いったん取り壊され、明治43年(1910年)に再建されたもの。浄土宗の御本尊・阿弥陀如来をお祀りしている。

 

御影堂(国宝)

元祖・法然上人の御影(みえい)を祀ることから、御影堂(みえいどう)と呼ばれ、「大殿」とも呼ばれる。

寛永十六年(1639年)3代将軍・徳川家光公によって建立されたもの。2020年4月に9年間の修理を終え落慶した。

 

宝佛殿

 

経蔵

 

法然上人御廟参道

 

 

 

法然上人御廟

御廟は、知恩院境内の最上段に位置している。下は勢至堂。

 

 

法然上人御廟の拝殿

 

 

 

法然上人御廟堂(法然上人入寂の聖跡)

法然上人は、建暦2年(1212年)、専修念仏の本拠地である、この地にあった大谷の禅房でご入滅された。

 

勢至堂(せいしどう)

勢至堂は、享禄三年(1530年)に建立された、知恩院で最古の建物で、姿勢菩薩をお祀りしている。

ここは、元祖・法然上人が念仏布教の生涯を送られ、最晩年を過ごされた場所で、大谷の禅房の故地であり、知恩院発祥の地である。(右上が御廟)

 

千姫の墓

勢至堂裏の墓の奥に位置している。

千姫は、2代将軍・徳川秀忠の長女。豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂の陣の後に姫路城主の嫡男・忠刻と再嫁するが、忠刻の病死で徳川家光の元へ戻った。そして、出家し天樹院と号し、江戸で死去した。享年70歳。

 

濡髪(ぬれがみ)大明神

 

「勢至菩薩」の御朱印

 

「法然上人」の御朱印

 

*元祖大師御遺訓「一枚起請文」

もろこし我が朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、

疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず。

ただし三心四修(さんじんししゅ)と申すことの候うは、

皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内にこもり候なり。

この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。

念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくよく学すとも、

一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、

智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

   証の為に両手印をもってす

浄土宗の安心起行(あんじんきぎょう)この一紙に至極せり。

源空が所存この外に全く別儀を存ぜず、

滅後の邪義をふせがんがために所存を記し畢んぬ。

   建暦二年正月二十三日 大師在御判