海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、和銅三年(710年)の平城京遷都の時、藤原不比等がここに邸宅を構えるにあたり、この地一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、北東隅にあった土師氏ゆかりの寺院を残した。この寺院が海龍王寺の前身です。

養老四年(720年)に藤原不比等の没後、娘の光明皇后が邸宅を相続し、皇后宮となり、北東隅の寺院は「皇后宮内寺院」となった。

 

天平三年(731年)に光明皇后は、遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)が無事に帰国を果たし、最新の仏教・仏法を我が国に伝えることを願われ寺院の伽藍を整備したのが、隅寺(海龍王寺)としての始まりです。

天平六年(734年)に、玄昉が唐からの帰路、東シナ海で暴風雨に遭遇したが、「海龍王経」を一心に唱え無事に帰国を果たしたことにちなんで、寺号を海龍王寺と定められた。

 

聖武天皇・光明皇后は、最新の仏教・仏法だけでなく、鎮護国家の基礎となる仏教政策をも学んできた玄昉を重用し、内裏に近い海龍王寺の寺持に任じいた。

玄昉は唐の洛陽宮にならい、海龍王寺を「平城宮内道場」と定め、伽藍の拡充および経典を充実させた。

 

   御本尊 : 十一面観音

   所在地 : 奈良市法華寺町897

   電  話 : 0742-33-5765

 

山門

 

 

 

 

 

西金堂と本堂(右)

 

本堂

 

 

西金堂

 

西金堂内安置の五重小塔(国宝)

 

東金堂跡

 

経蔵

 

観音経の中の、「観音妙智力、能救世間苦」

「観音菩薩の素晴らしい智慧の力は、普く世間の苦しみを救いたまう」という意味。