ライズ・オクトーバー・ライズ  [59] | Kのガレージ

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“書く”ということを続けていたい。
生きたという“あかし”を残したい。

「美咲さん、全員で出ようって、言いましたよね?」

「えっ……うん」そういえばそうだったと美咲は思った。けれども美咲の中では、足を怪我して踊ることができないタケルが出るという想定自体がなかった。

「僕も……出たいんですけど。賢三さん、いいですか?僕……踊れないですけど、太鼓は普通に、叩けますから。イスに座って太鼓叩くの……とか、ダメですか?」

「はぁ?イスが?やったごどねぇな、そったなごど」

 そんなことはやったことがない。賢三が言う通り、賢三の保存会の長い歴史の中で、そんな前例は一度もない。森若太鼓の歴史上でも、イスに座って叩いた人間がいたかどうか、賢三すら知らない。見たことも聞いたこともない。踊りながら叩くのが森若太鼓だからだ。

「……ダメ、ですか?」タケルがもう一度、自信なさげに尋ねた。

「はあ……」そう言われても、はてどうしたものか、そんな顔で賢三は少し黙った。

「ずさま、タゲル、出すてやってぐれ」哲太が口を開いた。「俺は出れねぇくてもいい。でもタゲルだげは、出すてやってぐれ。頼むじゃ」そう言って玄関の中に入り込むと、哲太は賢三をまっすぐ見つめてから、深々と頭を下げた。

 ——!?

 全員が呆気に取られた。哲太が頭を下げたまま続けた。

「頼む。ずさま。俺のごどぁ、どうだっていい。タゲルのごど、出すてやってぐれ。頼む……」

「……」賢三は驚いたような表情で、深々と下げられた哲太の後頭部を見ていた。

「タゲル君……」賢三は哲太の頭から離した視線をタケルに向けた。「前にな、おらほの保存会さは、一八はいねぇ、俺ぁ、そう言ったべ?」

「……あ、はい」タケルは森若太鼓行列で見た哲太の一八の踊りと、そのあと賢三に「いっぱちとは何か」を尋ねたときのことを思い出していた。

「……いだんだ、前にな。おらほの保存会にも、一八ぁ、いだのよ」

「!?」哲太がゆっくりと頭を上げた。

「えっ……それ、初めて聞いた」美咲も驚いていた。

「いだんだ。一八ぁ、前にな。哲太……お前ぇの親父がやったのが、最後だ」

 ——!?

 哲太の父親が最後の一八を務めた。その場にいる賢三以外の全員が初めて耳にする話だった。

「親父……?」哲太がハッとしたような顔で賢三を見た。

「んだ。サトルが最後にやったんだ。一八な。お前ぇは知らねども、サトルはな、おらほの保存会で、一番の踊り手だった」

「そうだったんですか?……哲太、知らなかったの?」哲太の背中から、美咲が哲太に聞いた。

「俺の親父……俺が、二歳のどぎ、死んだ」

「!?」

 美咲、慎太郎、綾香、タケルの四人は同時に息を呑んだ。ビューッと強い風が吹いて、外で何かがカランカランと音を立てて倒れるのが聞こえた。竹ぼうきか何かのようにタケルには聞こえた。タケルは玄関の中に入って、下駄箱に寄りかかりながら、ゆっくり玄関戸を閉めた。戸がしまった玄関の中は、急に静かになった。

「顔もわがらねぇうぢに死んだがら、知らね……親父が上手ぇがった、ってのしか、聞いだごどねぇっす」

「サトルが死ぬまではな……」そう言うと賢三は、上がりかまちにどっかりと腰を下ろしてあぐらをかいた。「ずっと昔がら、代々、一八ぁ、いだのよ。んだどもな、俺ぁ……」右の手のひらで、賢三はおでこを二度、三度とこすった。顔全体をこすっているようにも見えた。

「サトルのごど、思い出すのが、やんたくてな、辛ぇがらよ、やめだんだ。一八、入れるの」

 哲太の父親、つまり自分の息子であるサトルのことを思い出すのが嫌だから、辛いから、やめた——。賢三の保存会に一八がいないことの背景を語る賢三の話に、タケルたちは神妙な顔つきで耳を傾けることしかできなくなった。

「哲太……」綾香が少し震える声で言った。賢三の辛さと哲太の境遇を思って、涙が出そうになっていた。

「哲太、お前ぇは、太鼓も踊りも、上手ぇども、保存会さは少すも顔出さねぇ、練習さも来ねぇ、おまげに、ほがの保存会さ、金もらって出で……あの世でサトルが見でだら、サトル、何て思うべな……」

 哲太に向かってそう言った賢三は、見たこともないほど悲しい顔をしていた。一度下を向いてから、哲太を見つめて言った。

「哲太、お前ぇ……あの世で、サトルに、顔向げ、でぎんのが?」

 ——……。

 強い寒風が時おりカタカタと玄関戸を揺らした。それ以外は音という音が消えたかのように、賢三の屋敷の中は静まり返った。

「……すまねがった」

 体の奥底から発せられたように、すまなかった、という言葉が哲太の口から出てきた。タケルの耳には、深みと厚みのある言葉のように聞こえた。

「すまねがった……親父、ずさま。すまねがったな。ごめん……」言い終える頃には、哲太はもう玄関のコンクリートの上に両膝と両手をついていた。

 ——!?

 美咲、慎太郎、綾香、そしてタケルは、目の前で哲太が発した言葉と、とった行動に、目も耳も心も奪われてしまった。

「ずさま。頼む。俺に一八、やらしてくれ……頼むじゃ」

 両膝、両の手のひら、そして額をコンクリートにぺったりとついて、哲太は上がりかまちであぐらをかいた賢三に向かって、深く、長く、土下座をした。

 ——……。

 寒風がカタカタと玄関戸を揺らす音だけが寒々しく響いた。玄関のコンクリートの地面は、きっと氷のように冷たいに違いないだろう。それでも深く額をついた姿勢のまま動かなくなった哲太を見て、美咲も、慎太郎も、綾香も、タケルも、もう何の言葉も、声すらも出すことができなくなった。スッ、スッ、と綾香が静かに鼻をすすりながら涙を流し始めた。

「……」

  黙って哲太を見下ろしていた賢三が、腕組みしながら、ゆっくり、もぞもぞと姿勢を整えた。

「今日……木曜日が?」玄関の壁にかけられていたカレンダーに目をやって、気難しそうな顔で賢三が言った。

「土曜日だ、芸能祭。お前ぇ、でぎるのが?」

「!?」哲太が額を少し浮かせてから、思い切り上体を起こした。「やる。絶対ぇ、やる。何がなんでも、やる」

「……」賢三は無表情になった。何かしらの思考を巡らしているようだった。いろいろなことに想いを巡らせているようでもあったし、何かを思い出しているようでもあった。

「……でぎるんだば、やれ。でぎねぇなら、やらねくて、い」

 賢三はそう言って立ち上がって玄関に背を向けると、屋敷の奥へと伸びる木の廊下をみし、みし、と踏みしめながら歩いて、奥の部屋へと姿を消した。

 ——できるなら、やれ。できないなら、やなくていい——。

 それは賢三の様々な想いが詰まった一言のようにタケルには聞こえた。