4月からの再出発のため、家の片付けをしながら
これまでの人生も振り返ってみた。

中学高校時代は吹奏楽に打ちこみ高校3年の夏に
北陸大会出場(砺波高校)

大学へは現役で東京大学に入学。思えばこの頃が前半生の絶頂期。

あの当時に今持っている価値観や哲学があれば
それこそいろんなことができただろう。

けれど思いあがった自分は道を踏み外し、人間関係にも人生の目標にも悩むことになる。

そして、苦悩と失意の中でキリスト教に出会う。

大学時代後半期はロゴス英語聖書研究会に所属し
アッセンブリーオブゴッドの北野ジョイス宣教師や韓国タラッパン教会の留学生朴敬蘭女史、ユニフィケーションチャーチの宣教師から神さまの愛と信仰について学び、愛を中核に据える生き方について知見を深めた。

ユニフィケーションチャーチの学生会カープに籍を置きつつ、統一原理を学ぶ中で人生の指針となる価値観も定まった。

一方で、その教えを本当に理解している人は少なく、得意顔で講義している講師ですらも近視眼的で、打算的な生き方をしているのを目の当たりにし、ポンコツ教団のリサイクルとリフォームを通じて本当の理想を実現しようと志す。

彼らの多くは、「教え」が素晴らしい、と思いこみ、人々にも必死に伝えようとしている。
そして自分たちの言う通りにしてくれたら世界は必ず平和になるんだ、と。

けれど、彼らは肝心なことを見落としてしまっている。それは、彼らに「従いたくなるような人間的な魅力」もなければ、「対立を抱えている人々が双方納得できるような具体的解決策を提示する公平なバランス感覚」も持ち合わせていないということ。

素晴らしい教えや高尚な理念、精緻な理論は世にいくらでもある。彼らが「すごい!」と思っているのは、単に彼らがそのような世界を知らないに過ぎない。

だから、同じく「よく知らない人」に対しては一定の影響力を与えることはできても、既に何らかの宗教を持っていたり、自分の価値観が体系だって固まっている人に対しては、すごさをアピールできない。

一方で、教えをその通りに行動で示す
知行合一ができている人は希少であり
どんな教えを奉じていようと、
それができている人は尊敬に値する。

信念を生活を通して実践することが
信仰生活である


これは文鮮明師の言葉だか
信念の実践ではなく報連相の実践や
献金の実践や組織(アベル)擁護の実践に勤しんでいらっしゃる方も多い。

私はこのような群れから一定の距離を保ちながら
自分がどこまでできるのかに挑戦してきた。

神は生きている。
信仰をもつに至ったその当時から今も昔も
変わらない私の根幹に流れる理念

それは

普遍的な真理として、誰もが男と女によって生まれ、誰ひとり例外なく、誰かしらの助けを受けて成長する。

そうしてこの世に生を受ける全ての命が
「正しく愛される」世界の実現を目指す

人は食べ物と愛情の両方を糧として育つ

この世に生まれてくる子の中には

愛情はあるが食べ物を与えられない子
食べ物はあるが愛情を与えられない子
食べ物も愛情も十分に与えられない子
親は与えているつもりで実は「毒」を注がれてしまっている子

そんな子らがいくらでもいる

基本的人権??
その出発点と保護すべき水準は

ここでなければならない。

どの宗教の教えを問わず
親が子を正しく愛せるように人を育てられるのは
よい教えである。


まずは自分の家庭から愛の絆を深めていきたいと思う。
いみじくも統一原理を知り
神さまの復帰摂理歴史とその紆余曲折を学んできた人間が
軽々しく分派だ異端だと人様を糾弾する姿ほど
嘆かわしいことはない。

キリスト教会から異端と断ぜられたその根幹には
今も変わらぬ独善性があり

現代においては、かつて異端と迫害されてきた自分たちが
立場を替えれば同じ行動様式を示すことを通して

「まむしの子」であることを立証してきた。


我々が一貫してとるべき態度は
世の中の「異端」と呼ばれるものの中にも
部分的真理があり

何が正統であるかは
どこに所属しているかであるとか
何を信じているかとかいうこと以上に
その行動と結実をもって
確認せられるべきものである

という信念を示すことではないだろうか。


それができないうちは
キリスト教会からの「異端」との誹りと迫害を
まだまだ甘んじて受けなければならない。

やがて迫害のない時代がやってくる。
その時は先生が君たちを迫害するよ。

そう語られた
お父様の言葉通り

今、食口・祝福家庭は
み言によって審判されているのだ。
原理ではアベルを仲保として神様に連結されるという「教え?!」があります。

組織が大好きな方は、メシヤを中心に一つになれば、それは神様と一つになっている状態だと考え、中心性と一体化を強調します。

けれど、そこで絶対的に欠落しているのが、我々一人一人は神様の手足ではあるけれども、それ以外の誰か特定の人物の手足と成り下がるべき存在ではない、という視点です。

一人一人が直接神様とつながるチャンネルをもち
自らの判断のもとで連携するのが主人の連合体であって
そこにおける一人一人の神様との繋がりこそが個性真理体なのです。

統一教会は、アベル的かカイン的かの判断を「位置」の問題に矮小化してしまいました。

それゆえに、「カイン的なアベル」に率いられた群れは問題を起こし、またそれに対する自浄作用も働かなくなってしまっています。

道を誤りかけたとき、神様は常に人を遣わして警鐘を鳴らしてきましたが、その神様から遣わされた人物には決して「アベル」なる肩書きはなかったのです。

神様の心情に近いものがアベルであり
より精誠を尽くしている者がアベルです

人を判断するのに位置ではなく祈りをもって
縁を結んでいたならば

決して今のような四分五裂の事態はありませんでした。

蒔いた種が、蒔いたそのごとくに実を結んでいるのが今の時と言えましょう。

私は4月から24年間を過ごした東京・神奈川を離れ家族ともども実家の富山に帰郷します。

故郷で教派フリーのホームチャーチ運動を展開しつつ
地元教会の方々とも先方が望むならば連携していきたいと思います。

拒むならば独立で開拓していくまで、
アベル連合を築いていくまでですね。

富山北陸周辺にお住まいの方
どうぞよろしくお願いします。