統一教会では文先生が再臨のメシヤであり、3番めのアダムであり、最後の方であると主張してきました。

しかし、今や教会中枢の願望とは裏腹に、「すべてをなし終え」ることができずに逝かれ、残された弟子たちは、主の願いとは異なる神学を打ちたて、いち宗教団体としての地位を築こうとしています。

状況的にみれば、

再再臨が必要であるか、そもそも再臨主ではなかったか、という、統一教会にとってはどちらも受け入れ難い究極の判断を迫られる状況下において、

教会首脳は、文先生は全てを成されたのだ、文婦人は文先生と一体なのだという二つの論法によって教義的延命を図っています。


私は、全てを成された、という考え方には半分賛成、半分否定的です。

賛成できる部分は、一人一人が小メシヤになりなさいというメッセージを下さったことです。
祈祷も、主の御名ではなく、祝福の中心存在たる自分自身の名においてするように指導されましたし、何かを成して頂くのではなく、自らが成したことを報告する祈りへと進化(深化?)させて下さいました。

成就は見届けることなく逝かれましたが、家庭盟誓と成婚問答、そして祈祷の変化の3つを伝授して下さったことで、教えを相続する者の中から「本物」が現れてくる可能性が残されました。

一方で否定的な半分というのは、文先生の成された功績を「真の父母」の実現に求める捉え方に対してです。

世界がどんなに天国からほどとおかろうが、真の父母が地上に顕現したのが尊いんだと。

けれど、子どもと無関係に父母が存在できるでしょうか。

妻さえいればいいのはあくまで「夫婦」の段階であって、「父母」になるためには子どもが不可欠でしょう。

実子をないがしろにする真の父母ならば、そもそも結婚など必要ないのですし、子どもなど生ませることもないのです。
また、仮に、実子庶子弟子の区別なく全てを我が子として、というのであればそれはそれで筋が通りますが、その場合今度は、分派を迫害した時点でアウトです。

そのような理由から、
真の父と同等の権威を母に付与しつつ、上層部が摂理の失敗の責任を負うことを回避しつつ、これまでとかわらぬ歪んだ信仰を末端信徒に継続させる、打算的な発想から言い広められる、不毛な「全てを成した」宣言には、私は断固反対します。



金孝律のメッセージ

私たちは今地上にいらっしゃる真の御父母様に対して、絶対信仰を持って従って行くのであり、死んで霊界に行けば霊界に残って全く同じ信仰生活を続けていくのです。そうじゃないですか?(そのとおりです。)ぐらついたり、これ以外の他の力や他の理論が忍び込む余地があってはなりません。何年も真の御父母様に従ってきた信仰者として、そういう信仰を持っていなければならないでしょう。これが私の信仰告白であり、皆さんに対して懇切にお願いしたいことです。これは私たちが持つ特権でもあり、同時に義務でもあります。アーメンですか?(アーメン)


こうしてみると、
ここに、はっきりとお父様の伝統や思想とは異なる彼流の神学があり、ここ数年の混乱をもたらした様々な美しくない公文の根底に一貫して流れる思想との絶妙な一致が見てとれます。

彼は一体いつ罪に定められるでしょう。余りの罪の大きさに私にはコメントのしようがありません。