明治29年三陸大津波の生存者の証言(Ⅰ):「海嘯遭難の直話」(大正12年) | ksatonakanohitoのブログ

ksatonakanohitoのブログ

頭にきたのでこのページを作りました

解題


災害の記憶を語り継ぐ事は難しい。写真や動画のように手軽な記録手段も無かった時代であればなおさら、記憶に頼り文章や絵画として残すよりほかなかった。


明治296月に起きた三陸大津波については、発災直後の見聞記事や報告書が多数残されている。しかし、年数が経過するにつれ、この大惨事を語る機会は減り、人々の記憶から薄れていったことは間違いない。昭和8年の再度の三陸大津波に見舞われた後、被災した東北地方でも明治の記憶が掘り起こされるという経緯を辿っている。



そのような中にあって、ここで紹介する「海嘯遭難の直話」は、明治29年の津波の生存者の体験談を大正12年の時点で刊行した珍しい記事である。大正12年と言えば、関東大震災が9月に起きているが、記事は3月に刊行された『桃生郡誌』に収録されており、この震災とは全く無関係である。


体験談の話者は、現在の石巻市雄勝町荒の出身、高橋長五郎(津波当時38)である。この津波で、彼の家族は本人と妹のみが助かり、妻、長女(8)、養子の九七(10)を喪う。長五郎本人は、津波で潰れた家の中から海中に脱出し、漂流物につかまって20時間ほど漂流した後、女川沖合の笠貝島付近で救助される。


短い談話でありながら、生々しい情景描写と哀切に満ちた長五郎の言葉の端々からは、津波から四半世紀を経過しながらも癒える事のない無念さが、痛い程に伝わってくる。


明治29年当時の津波の記録は、新聞記事や役所由来の報告書が多く、どうしても伝聞や状況説明に終始する傾向がある。被災住民の生の声がなかなか残らないことは、最初に述べたとおり、致し方ない現実であった。大正11年に採録された高橋長五郎の談話はその点で、大正期の口語で語られた被災住民の記録としても貴重なものであろう。また、彼の漂流経路、家族の遺体がどこで発見されたのかというような被災者個々人の情報も、当時にあってはほとんど追跡されることの無かった話題である。


以下、宮城県桃生郡役所『桃生郡誌』(大正12)pp. 500 – 502.から「海嘯遭難の直話」を、関係する地域の地図を付して翻刻する。翻刻にあたっては、歴史的仮名遣いを現代的表記にあらため、適宜、句読点と段落を設けた。原文は縦書きであるが、ここでは横書きとし、漢数字を算用数字にあらためている。[  ]内は、今回の翻刻で付した注記である。







海嘯遭難の直話 (高橋長五郎氏談)


思い起すも身の毛のよだつ様です。時は明治29615日の節句の日[旧暦55]でした。平野地方では夕刻、沖の方に当って花火の様な音を一両回聞いたそうですが、私どもは別に気にも留めませんでした。



風は子丑の方で、濃霧の為、一間もはなれたら何物もわからん程でした。私は38歳の時ですが、尋常2年に通って居る8歳の長女が学校通いで疲れたものと見え、囲炉裏の辺で私の膝に靠れてまどろんで居りました。これが此の世の名残りとは、神ならぬ身の知る由もなく、思い起すもただ涙の種です。



松太郎氏と留之助とが遊びに来て居られましたが、夜の八時半頃、沖の方より大風の様なワーワーと大きな音がして来ましたので、変に思い戸を開けますと、こはそも如何に、海水がえらい勢いで庭まで押しよせて来ましたので、ソリャ水だ、と長女をたずさえ、其の時茶の間に休んで居りました養子の九七(10)を引き起し、逃げ出そうとする際、世の終りとも思われる大音響を耳にすると供に家は潰れ、暗黒の間、身は水中にあることを知りましたが、この響きの瞬間、妻子を手よりはなしてしまいました。



一時、何が何やら夢中でしたが、かくてあるべきでないと身に被いかかって居る壁板をおしやり、外に出ようとしました。ところが、着物の裾が折れたおれたる柱の根元にはさまれて動く事が出来ません。畢生の力を出して両足でふんばりますと、着物が破れ、身は自由になりました。そこで凡ての障碍を排してそとに出て見ますと、身は既に家と共に海中に運ばれて居るのでした。家族は妻、長女、九七、妹と自分との5人でしたが、皆どうなったものか、その時はちっともわかりませんでした。私はいくらか水泳のたしなみがありましたので、水も飲まず、また幸い怪我もしませんで、浮き物に身を托して暗黒なる波間を漂い行きました。



[以下、続く]