寺社No.6485 

御朱印No.6870 

眞幡神社 (黄幡社)

広島県広島市南区 

邇保姫神社十社巡り 

2024年4月13日

御朱印は、邇保姫神社

右横に広島新四国50番地蔵寺があります。
広島市保存樹1番


義人三代十郎兵衛の墓


義人 三代十郎兵衛の由来 
三代十郎兵衛は寛政の頃(1789~1800)大河の地に生れたが早くして両親を失い主水町の御水師方の養子になる。そこで成人した十郎兵衛は身長2m余りとなり力も抜群に強くそのことが藩主浅野候の耳にとまり御手廻り御道具役に召抱えられ昇進して籠夫となりました。そして一年経った頃浅野候が参勤交代の為江戸に上ることになり十郎兵衛もこれに従いました。 或る日将軍の意向で角力の御前試合催され三家の抱力士(将軍、奥州、安芸)が出場しましたが安芸藩力士が大敗したことを聞いた十郎兵衛は浅野候に申出て許しを得て飛入りで出場し二家の力士を土俵に沈め安芸藩の名をあげましたが十郎兵衛は将軍の前で将軍家お抱え力士を倒したことによりその復讐をおそれその夜の中に江戸を逃れて一人広島に帰り生地大河に身をひそめておりました。 やがて浅野候も江戸の勤めを終へて広島に帰城され十郎兵衛をお呼び出しになりました。十郎兵衛は死を決して登城しましたところあにはからんや浅野候は満面に笑みを浮かべ満足げに御前試合で勝った事を非常に喜ばれ十郎兵衛に対して「そちの望みのものは何でも適へる」との御言葉に十郎兵衛は夢見る心地して「別に望みはありませんが私の生地大河近海の海上権を下され」と申しました。候はこれを承知せられ佐伯郡地御前鰯浜より安芸郡坂村松ヶ浜に至る間の海上権を許可せられました。爾来大河住民はこの海から多くの利益を得たのであります。この時浅野候から賜った海上権の証文(御墨付)は金屋町の広寂寺に所蔵してありましたが火災の為焼失したと言われておりますが、又一説には後年になって浅野家に没収されたとも言われております。この後、江波村等との争いが起こりますが肝心の証文がない為漁区がはっきりせず江波との紛争がたえなかったといわれます。 安政二年の大阪屋庄助の事件もその犠牲者の一人と云えるでしょう。爾して十郎兵衛のこの偉業によって大河住民は百有余年の間生計を支えてこられてことは実に大河の一大恩人と云うべきであります。この故人の偉業を偲んで大正初期から毎年旧三月三日の節句には境内に土俵を築き供養祭りに角力大会が催されていましたが現在では黄幡神社の秋祭りの日にその供養祭が行われるに止まっていますが、この史蹟は永久に保存されるべきものでありましょう。この墓は三代十郎兵衛が現役時代に広島城から一人で肩に担いで持ち帰り黄幡神社前の橋の根石に使っていたものを明治の中頃心ある人達が現在地に持ち上って墓石にしたものでありますがこれを見ても故人の力量の非凡なるを知ることもが出来ます。
大河文化財保存会 昭和46(1971)年10月吉日

消された広島の黄幡信仰

 現在の広島市と、その周辺地域では、「黄幡」という中国由来の神が信仰されていたらしい。庶民には、「おんばんさん」という愛称で親しまれていた。

 今でも、広島市安佐南区には、黄幡神社が多数存在する。しかし、祭神は、別の神に変更されている。

 黄幡神社(旧称を含む)の分布は、安芸武田氏の勢力範囲とほぼ一致している。

 江戸時代になると、黄幡大明神(現在の比治山神社)が、この地域の黄幡信仰の中心地になったと推察できる。

 明治の神仏分離により、外来の神を神社に祀ることが禁止された。ここで、広島の黄幡信仰は抹殺された。

 今でも、「黄幡」という名字の人がいちばん多い都道府県は、広島県である。しかも、広島市安佐南区に集中している。