今日、「大覚大僧正」と尊称されています、妙実聖人(1297~1364)は、日蓮大聖人のご遺命を奉じられた日像聖人(1269~1342)の直弟子であります。聖人は、日像聖人の弟子となられた時に、「妙実」という名を授けられました。また、嵯峨の大覚寺におられたと伝えられます関係からか、衆人から「大覚聖人」と呼称されたお方であります。
当時の京都は、日像聖人の伝道活動によって、次第に法華信仰が洛中に浸透していましたが、その基盤はまだ確かなものとは言い難い状況でありました。そのような中で妙実聖人は、皇室や公武との接近を図られながら、弘教活動に励まれました。その結果、京都における法華経信仰の教勢は一段と拡大すると共に、揺るぎないものとなりました。また、聖人の活動は洛中だけに止まることなく、その視点を近畿・山陽に向けられました。特に当時、法華信仰の未開の地でありました山陽(現在の岡山・広島県)の布教を目指されて、自ら各地に弘教活動を展開され、法華の道場数十ヵ寺を開基される足跡を遺されています。
その後、京都の日蓮門下における各本山の内、わが大本山妙蓮寺第二世をはじめ、妙顕寺、妙覚寺、立本寺のそれぞれ第二世に歴せられるなど、名実ともに京都・山陽地方に於ける法華経信仰の総帥とも言える尊崇をあつめられました。しかし一方では、法華経弘通者の宿命とも言える、数多の苦難を被られた忍難のご一代でもあったのです。
こうした波乱に富んだ聖人のご生涯は、数々の伝説と共に、そのご功績が今なお語り継がれて、世に「大覚大僧正」と尊称されるようになったのです。今回は、その妙実聖人の足跡を辿ってみたいと思います。
大覚妙実聖人は、永仁五年(1297)に誕生されましたが、聖人の出自については、古来から幾多の説が提起されながらも、確かな素性は今日に及んでも定まっていません。
諸説を挙げてみますと、
(1)近衛家に縁故のある出自とする説。
(2)近衛経忠(このえつねただ)の子とする説。
(3)後醍醐天皇の第三王子である恒性親王とする説。
これらの中で、研究の進んだ現在では、「近衛家縁故のご出身である」とする説が通説となっています。
聖人は、幼名を月光丸、羅ご羅(らごら・ごは目へんに候)丸といわれますが、俗説では、近衛経忠の子として誕生された後、後醍醐天皇の養子となられて、嵯峨の大覚寺(真言宗大覚寺派の大本山)に入られ、准三后昭慶門院憙志(じゅんさんこうしょうけいもんいんきし)の方を母代わりとして、この寺奥深くに育てられたと伝えられます。その後、正中元年六月後宇多天皇が五十八歳で崩御されると、大覚寺主である叔父、寛尊法親王の弟子となられ出家されました。
このような高貴な身分に生まれられた聖人は、当時の習慣として多くの家来や、従僧と共に、昼夜に及んで学問や武技に励まれました。しかし、学問が進むにつれて、ある疑問を抱かれるようになられました。
「人は誰しも死を迎える。では死後の世界とは如何なものか、小乗の経典に依れば地獄と極楽とがある、この世で良いことをした者は極楽に行き、悪いことをした者は地獄へ行かねばならぬのか。御父(おんちち)天皇は十善の天子と貴ばれながら、なぜ戦をせねばならなかったのか、なぜ人を罰せねばならぬのか、そして、死去された今は地獄へ行かれたのか、極楽へ在られるのか、何とかしてそれが知りたい。」と、御孝心深い聖人は、この疑念を側近の従僧、智覚・正覚・祐存等に尋ねますが満足のいく返事は返ってきませんでした。そこで、学問の師で篤学の誉れ高い性勝和尚に尋ねられますと、「それが真言密教の秘であります、そのうちに悟られるでしょう。」という答えでありました。聖人はこの疑問を解決しようと、さらに学問に打ち込まれました。しかし、その疑問は日ごとに深まるばかりで、解決のきざしさえ見出せなかったのであります。
そうしたある日、聖人が、二、三の従者を連れて洛中北野天満宮の辺りを通られますと、一人の僧が大衆を前にして一心に説法をしていました。手には法華経を持ち、朗々としたその声に三人は足を止められました。聖人は説法者の気高い姿に圧倒されながらも、その言葉にじっと聞き入られました。そのうちに日頃より聖人が求めてこられた疑念がだんだんと明るくなり、霧がはれていくような感があったのです。やがて、座の説法を終えた僧は、声高らかにお題目を唱えると、厳かに合掌し、その場を後にしました。これが「日像聖人」との最初の出会いとなったのであります。以後このご縁が、聖人を真言密教から、法華経信仰へと大きく転心させ、後世、数々の功績が語り継がれる大覚大僧正・妙実聖人の第一歩となったのであります。この時、正和二年(1313)大覚聖人は十七歳、日像聖人より、名を「妙実」と授けられました。
三十歳代中頃になられた聖人は布教伝道を近畿・山陽にすすめましたが、特に山陽地方には備前・備中・備後に大きな教化の実をあげられました。この過程で注目されることは備前松田氏の入信です。この出来事は大覚聖人にとって、大きな影響をもたらすことになりました。
聖人が備前津島で盛んに法陣をはられた時、付近の真言宗福輪寺の良遊と問答の結果、論伏させられた良遊は、一山の宗徒と共に改宗し、聖人に帰依しました。これを聞いた矢崎登美山城(備前の豪族である松田氏の城)主の松田元喬は真言の碩学を集め、聖人と城中で法論させましたが、ことごとく論破されたため帰依するに至りました。そこで元喬は、その父の元国、及び元喬の子元泰も、共々に聖人に帰依し福輪寺を妙善寺と改め、他にも数ヵ寺を建立して諸人に法華経信仰をすすめられました。その後、松田氏を最大の外護者としてこの地方は「備前法華」と呼ばれるようになったのです。
聖人が山陽地方を弘通されたのは元弘の末(1333)から康永元年(1342)にかけての十年前後と見られます。備前・備中・備後には、今もなお二十余ヵ寺が開山を大覚大僧正として仰ぎ、これらの寺々には当宗の寺院の数ヵ寺も含まれています。
興国三年(1342)、聖人は日像聖人より御遺言と共に讓状を受けられ、妙顕寺を付属されました。その当時は、南北朝内乱のさなかで、足利幕府の基礎も固まっていませんでした。このような治安の中で聖人は妙顕寺において幕府の要請に応え、天下静謐のために法華経を転読して祈祷を行いました。これによって妙顕寺は幕府の強固な保護を受けるようになり、さらに聖人は、皇室や公武に対しても、急速な接近をはかられましたので教勢も一段と強固なものになりました。ここに名実ともに法華弘通、四海唱導の重鎮となられたのです。その後、延文元年、聖人は悟るところがあり、妙顕寺を朗源聖人に譲り、自らは、弟子等と共に山崎の辺り西の岡(現在の京都府乙調郡西岡村)に草庵を結ばれました。
延文三年(1358)、聖人六十一歳の時、京の都は数ヶ月間、一滴の雨も降らず草木は枯れ、牛馬は行き絶えだえの始末で、幕府は四方の神社仏閣に御使をたて、請雨の祈願をおこないましたが、しかし、その効もなく半滴の雨も降らず、天皇自ら神泉苑にて三十七日の請雨の法を祈念される有様でした。こうした中で、聖人の住む草庵に勅使の物々しい行列が到着しました。勅宣を断ることはできず、聖人は最後のご奉公と、法華経が最も勝れていることを天下に示すべき時と、側近を四方に走らせ幾百の僧侶を伴って、桂川の辺りに祭壇を設けて十界のご本尊をかかげ、祈願に入られました。そうすると法華経八巻の一軸がいまだ終わらないうちに、西山の上あたりから黒雲が次第に広がり、京の都は四方万民草木ことごとく妙法の雨に潤されたのです。
この功績によって天皇は、日蓮大聖人に「大菩薩号」を、日朗・日像両聖人に「菩薩号」を授け、大覚妙実聖人も「大僧正」の位に叙されたのです。爾来、大覚妙実聖人は「大覚大僧正」と尊称されるようになり、今日に及んでいます。しかし後に、このことが因となって、法華宗徒への大法難が降りかかることになります。
また、この時のご本尊は「慈雨の御曼陀羅」と称されて、今も大本山妙蓮寺に格護されています。
貞治三年(1364)、聖人は朗源聖人に妙顕寺主を譲られ、その際に、長文の書簡を送られています。そこには、恩師日像聖人が親しく宗祖日蓮大菩薩よりたまわりました御教えの数々や、今後の法華宗徒への指示を事細かに記されてありました。そしてまもなく聖人は、同、四月三日、六十八歳をもってご遷化されたのです。以後、聖人のご命日には、四月三日にちなんで「シグサン*」と称してご遺徳が偲ばれています。
妙顕寺沿革
当山は延文元年(1356年) 4月8 日、日像菩薩を開山上人、一乗妙性上人(刀匠・三原一乗別称法華一乗)を開基上人として創建されました。
そのいきさつは、大覚大僧正(妙実上人)がその師・日像菩薩の命により中国地方へ伝道に来られ鞆の地に「法華堂」(現在の法宣寺、福山市鞆町後地 1194-1 )を建立された折、その教えにつよく感化をうけた刀鍛冶・三原家(原とも呼ぶ)の「妙性」「本性」の兄弟は直ちに師檀の契りを結びました(以降三原兄弟の打つ刀剣には「法華一乗」の銘が付されるようになりました)。
大覚大僧正はさらに中国地方の弘通を続けられたので、妙性、本性兄弟は直接、京都・妙顕寺の日像菩薩について修行するために、幾度も京都と水呑を往復しました。ついに一寺建立を誓願し、自分の持ち山に当寺を建て開山日像菩薩・二祖大覚大僧正・三祖一乗妙性上人として開創されました。寺号も大本山・京都妙顕寺と同名の「妙顕寺」とすることが許され、更に「西龍華」の称号をも賜りました。また山号は開基上人のゆかりにより「妙性山」と号しています。また弟の本性上人は「本性山妙法寺」(福山市南町 9)を創建されています。
かくして、当山は日像菩薩の遺命に従い、備後一円はもとより広く中国・四国地方の教線の中心として各地より登詣を受けながら、一方では地元水呑において「水呑千軒みな法華」と呼ばれるほどの地域に根ざした大きな教化を果たしています。
なお伝聞によれば、天正 15年(1587 年)関白豊臣秀吉が九州征伐にて瀬戸内海を航行中、当山を遥見して案内人に寺名を尋ねたところ、大本山と同名であることを知りました。そこで「不遜である」との理由で改名を強いられ、一時弟寺の「妙法寺」の名を借りたことがありますが、やがて復名が許されたと伝えられています。
当山は末寺十六ケ寺を有した中本寺であり、また優れた僧を幾多輩出しています。中でも 18世「本迹院日意上人」(新寺十ケ寺建立)、 29世「龍雄院日叡上人」(新寺五ケ寺建立)、 36世「心妙院日修上人」(身延山法主・日蓮宗管長)等は宗門史上にも有名です。
【Wikipedia記載の関連寺院】
●仏住山蓮昌寺 (岡山市北区)
●明光山妙勝寺(岡山市北区)
海雲山妙立寺(岡山県倉敷市)
龍雲山佛乗寺(岡山県倉敷市)
龍雲山法福寺
圓明山法華寺(岡山県笠岡市)
大覚山妙乗寺(岡山県笠岡市)
春日山乗福寺(岡山県笠岡市)
光応山圓融寺(岡山県矢掛町)
岸本山覚林寺(岡山県井原市)
光積山妙昭寺(岡山県井原市)
榮昌山妙泉寺(岡山県井原市)
妙法山蓮華寺(岡山県井原市)
金昌山妙善寺(岡山県井原市)
永潤山長泉寺(岡山県井原市)
漆原山円信寺(岡山県井原市)
高原山妙福寺(岡山県井原市)
長命山長遠寺(岡山県高梁市)
大覚山法華寺(岡山県倉敷市真備町)
大覚山慈源寺(岡山県倉敷市真備町)
妙見山本住寺(岡山県倉敷市真備町)
●大覚寺 (岡山県総社市軽部)
清音妙蓮寺(岡山県総社市)
●具足山妙本寺(岡山県吉備中央町)
●素南山巨福寺(岡山県高梁市)
正木山妙源寺(岡山県真庭市)
随縁山本覚寺(岡山県真庭市)
●金原山妙圓寺(岡山県真庭市)
●藤田山成就寺(岡山市北区)
臥龍山道林寺(岡山市北区)
常照山法鏡寺(岡山県備前市)
●立石山松寿寺(岡山市南区)
鷲林山妙善寺(岡山市北区) 不受不施派
●経王山本蓮寺(岡山県瀬戸内市)
大樹山法泉寺(岡山県和気町)
●大覚山法宣寺(広島県福山市)
●長息山妙宣寺(広島県尾道市)
菩長山妙永寺(広島県福山市)
漫延山妙楽寺(広島県神石高原町)
Wikipediaには、妙皇寺も妙顕寺も記載されていません。