目の前のこと
頑張ろう。口先だけ
口先だけか。もっとできたのかと問われると、おれはあまりそう思わない。
もっとできたなら、もっとやっているから。
結局、ここまでの俺は、俺の全力だよ。
それが世間的に口先だけにカテゴライズされるのならきっとそうなのだろう。
口先人間が嫌われるのは人間が信頼をベースに生きていて虚言を本能的に嫌悪するからだろう。例えば貨幣制度はみんなの信頼と共通認識によって成り立っているんだ、信頼を失ったら社会は崩壊するもの。
客観的に見て俺の身体能力は明らかに劣っていたよ。ハンドボール投げの結果からも,誤審の量からも明らか。(初期値という意味で、誤審は誰も訓練しないから素が出るという意味で)
結局あそこは詰みの環境だった。ベンチに入るという結果を残すことを目標にした時には、詰み。当時の俺にとってはね。
もちろん、違う方法を取ることが今なら思いつくよ。でも、今の俺でも、もっと違う結果を出せたかどうか怪しい。だから、「勝てる環境で勝負をすること」、これは俺の一生の教訓だ。
ここからは先は、もしもの話。もしも俺が今あの環境にいったら何をするかという、そういうとりとめもない妄想であり、永遠に実現しない(過去の事実は変わらないから)、おとぎ話だ。
趣味という逃げ道を作ったのはある意味正しい。一つの軸だけで自分を測ると、その軸で敗北したときに大きな痛手になるから。回避型パーソナリティだ。根本には、負けたら実存が崩壊するという不安定さがある。この不安定さは苦しいし、行動力が減ったり心をすり減らしたりという様々な問題を引き起こす課題だけど、回避先を用意することは、選択肢としていいものだよ。というか、俺はこの回避先を用意することで目の前の劣等感から何とか生き延びて部活を続けられたんだ。もしも当時の不安定な実存で、心理学などの武器も持たずに、正面から劣等感にぶつかっていたら、問題は目に見える形で現れただろうね。退部なり、登校拒否なり、部活の人間関係に波風を立てるなり。
劣等感はあった。当時の俺はそれに気づかなかった。
気付かなくてもよかった、怒られても時が過ぎれば痛みは消える。
研究室では劣等感を強く意識したし、突き付けられて行動にあらわれたな。
こうしてみると、高校生の俺は、別に負けてもよかったんだ。研究室ではいかない=退学で、より切実な問題だった。
部活はその一瞬一瞬をやり過ごせればそれでよかった。周囲によって俺は社会に組込まれ最低限は一体感を実感できた。野球は楽しかったし、体も動かして大声も出して、自動的にストレスコントロールができていた。
一点二点、
・劣等感を回避した結果、結局存在の不安定さという根本問題が解決できず、研究室にて噴出。
・口に出したことを実行しないことを積み重ね、「自分は口に出したことを実行しない→実行力のない男」という信念を強化してしまった。
・不安定が故に人に本音を言わず本心を隠し、遠慮し続けた。自分を出さず道化師になり、与えられたキャラを演じ続け、自分をすり減らした。他人の期待にこたえ続けた、他人の期待に応えるという名目で、自分を出すという恐怖を隠し続けた。そうして偽自己―体系で世界と関わり続けた結果、自己を喪失しアパシーになった。
・一人でやろうとした
・俯瞰で見なかったため、目の前の恐怖で守備にしか目がいかなかった。ベンチ入りにはバッティングも(こそ)必要だった。
・細分化しなかった。工夫にもつながったのにな。肩もバッティングも細部分次第でよくなった。一歩目、とかはその片鱗ではあったがな。イメトレもし始めていたか。惜しい。
・存在が不安定だったため、または、能力と自分の価値を分離することができなかったため、野球で勝負することを恐れた。
・本当の自分はこんなもんではないと思ってしまうのは、本当の自分で負けることが怖いから。負けてもいいと思えないんだよ。負けたら自分がバラバラになってしまうと感じる。そして何より、結局、その「本気を出していない自分」で挑んだ結果が、本気の自分というな。だから俺は、やっぱり、過去の自分を肯定していたい。俺は俺なんだよ。負けたのが俺なんだ。
俺は負けたんだ。認めたくないけど、認めるしかない。俺は負けたんだ。能力が足りなかった。俺は俺。負けたのが俺なら、それもまた俺なのだ。
負けを認めた上で。その上で。勝てることで勝負することさ。目の前のことに取り組んで。社会と真自己―体系で取っ組み合いをして。
ちゃんと負けて。本当の自分を置き去りにしないで。
その結果がリストラでも全然昇進できない未来でも
こうやって、考え抜いてその状況でベストを尽くす育ちのいい素直な人間の元には、多くのひとが集まるよ。だから俺は大丈夫なんだよ。
あと、ちゃんと考えていれば、自分の勝てる環境で勝負するから、負けないというな。