ピアニストと言っても演奏だけしていればよい、と言う訳ではない。
ホテルの従業員なのだから、ホテルの仕事がメインとなる。
開店前にモップをかけたり、カウンターを拭いたり、メイン・ダイニングに「本日のメニュー」表を取りに行ったりという雑用が就業時間の多くの割合を占める。
開店前、僕は客席に3分間だけ座ってみる。
こうしてお客様の視点から店を見回してみて、やり残している仕事はないかチェックするのだ。
こうしろと誰に指示されたわけでもないが、自分なりの工夫でやっている訳である。
開店してからも所謂「行列の出来る店」ではないので、お客様がお越しになるまではホテルのパンフレットを折って旅行代理店に送付する手配などを淡々とこなす。
そうしているうちに、席も埋まってくると僕はピアノの前に座る。
そして、「ムーン・リバー」とか「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」などといったスタンダードを耳当たり良くアレンジして弾いた。
演奏する曲はその場の雰囲気に合わせなければいけない。
その為にはお客様の年齢層や服装、人数などで判断して選曲するのだがこれは経験がないとなかなか難しい。
僕は先任の先輩からのアドバイスを忠実に実行した。
だからお客様や上司からの評判は悪くなかった。
ピアノの上の灰皿にチップを置いてくれるお客様もいて、閉店前には僕にとっては結構な額になっていたりもした。
照明を落として店を閉めると、僕は貰ったチップをコートのポケットに突っ込んで一人で街へ出た。
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