かつて、米国には多くの高級車が存在した…クライスラーがフィアットの子分になり、今ではキャデラックとリンカーンだけになってしまったが。

 たくさんの高級車は、1930年代の世界恐慌の頃に消えてしまったが、生き残ってWWⅡも乗り切ったのが、高級高品質で知られるパッカードだった。

 パッカードは、米国だけでなく、世界の王侯貴族御用達で、戦前天皇家も何台か購入、戦後昭和天皇がマッカーサー元帥をGHQに訪問した時にも使われた。

写真:宮内庁のパッカードフェートン/神宮外苑。

 1939年ドイツ軍のポーランド侵攻。1941年日本軍の真珠湾攻撃で、1942年米国自動車産業は、乗用車生産から兵器生産に転向した。

 有名なジープ、トラック、装甲車、戦車、大砲、機関銃、各種兵器、発動機などを、戦場に送り出した。

 で、車ユーザーには{車が作れません・お国のために頑張っています・勝つまでです・ゴメンナサイ}と、各社、戦意高揚を兼ねた、言いわけ広告を打った。

 写真は{ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機のエンジンはパッカード製}という、宣伝ポスターだ。

 近頃ではマスタングだが、1964年に登場したフォードマスタング頃まで、日本ではムスタングと呼んでいた。

 米国は、元々空冷エンジンが得意だったが、戦争が過激になると、優れた液冷エンジンが欲しくて、白羽の矢を立てたのが、ロールスロイス=RRマーリンだった。

写真:RRマーリン&パッカードマーリン/右端は二段型スーパーチャージャー。

 日本グライダークラブの仲間だった、米空軍バッツ大尉は「工作精度が高いRRに適したメーカーを」と探したら、高品質高精度が定評のパッカードになり、ライセンス生産が決まったのだ、と言う。

 余談になるが、パッカードはマーリンではなく、マリーンエンジンでも有名だ…日本では、海上自衛隊がらみの疑惑で有名になったヤツだ。

 ケネディー大統領が、WWⅡ中に搭乗していた魚雷艇も、パッカード・マリーンだった。

 さて、P51ムスタングは、大戦末期の1944年に登場…WWⅡ中の最優秀戦闘機と言われ、朝鮮戦争でも活躍した。

 開発は英国のようだが、ノースアメリカンが改良したので、ふるさとのRRと相性が良かったのだろうと、バッツ大尉が言っていた。

写真:P51/NZワナカの博物館で&P51と三本実(三本和彦の弟)ロンドンの博物館で。

 全長8.95x全幅11.3m・重量4580kg・12.7㎜機銃x6・ロケット弾x6・爆弾900kg・RRマーリンV1650型は液冷V12気筒・1450馬力だった。

 戦闘直前に切放して、身軽になる燃料増加タンクは、ゼロ戦で登場した世界初のアイディアだった。

 また、後方視界のいい、防滴形キャノピーも、ゼロ戦や隼で登場した、世界初アイディア…初期のムスタングは、プレーンバックだった。

写真:珍しいプレーンバックのP51と後方二機は後期防滴形のP51。

 太平洋戦争が始まり、マニラを空襲した爆撃機の護衛がゼロ戦だった…爆撃終了日本機が引き上げると、米軍は血眼で、フィリピン近海の日本空母を探した。

 台湾からマニラまで往復2000㌔・そんな長距離を往復する馬鹿げた?戦闘機は、世界のどこにもなかったからだ。

 欧米戦闘機の開発コンセプトは、200海里(360㌔先の戦場で、30分間戦闘)というのが基本だから、有名なメッサーシュミット戦闘機も、ロンドン空襲の爆撃機の護衛がむりで、ドイツの爆撃機は、多大な損害をこうむった。

 ドイツにゼロ戦を100機あたえたら、英国戦闘機群は壊滅しただろうと言う、軍事専門家もいた。

写真:バトルofブリテンでドイツ空軍を撃退した英スピットファイアー戦闘機とRRマーリン23型/1280馬力。

 精神論で戦う石頭の日本軍と異なり、柔らか頭の米軍は、兵器の改良速度が速く、アリューシャンで捕獲したゼロ戦からの学習で、改良進歩の集大成がP51ムスタングだった。

 硫黄島が陥落すると、そこから発進する、B29爆撃機を護衛して、日本本土を暴れ回った。

 さて、パッカードの戦中広告だが、P51下方の車は、多分1942年型パッカード・クリッパー180型のようだ…直列八気筒・5696cc・165馬力・WB3175㎜・1942年で生産を中止したので、生産量は僅か600台だった。

{素晴らしい戦闘機はパッカードのエンジンで飛んでいるが我が社が自動車屋であることをオ忘れなく}が、広告の文言のようだ。