むかし関越道も碓井バイパスもなかった頃、乗用車で、東京から軽井沢へは、池袋から中山道を、熊谷→高崎→松井田→碓井峠と越えて、軽井沢まで約160粁の道のりだった。

 昭和30年代前半は、車が少ないから3時間ほどだったが、昭和40年に近づくと車が増えて4,5時間は当たり前、夏の土日などは8時間も掛かるようになった。

 で、渋滞を避けて裏道街道を選び、小川→寄居→藤岡→富岡→下仁田→裏妙義の山道越えをよく使った。

 昭和30年代のある年、軽井沢からの帰り道で、小川町の道端に、忠七めしなる案内看板を見つけて、好奇心にかられたのが初訪問だった。

 小川町の表街道には、いかにも入りたくなる、古びた割烹福助・女郎鰻があり、昭和40年代の初訪問時で、仲居の態度悪く、注文間違えで取り替えた鰻重が、入れ物を変えただけだったり…で、不愉快になり二度と行かなくなった、水商売は、一度・一度が大切だと教えられた。

 忠七めしは、古びてはいるが、立派で大きな割烹旅館・二葉だった…1748年創業、敷地千坪で数寄家造りの建物は有形文化財指定を受けている。

 看板メニューは忠七めし…八代目当主・八木忠七が、山岡鉄舟の意向で、工夫をこらして生まれた料理だと言う。

 忠七めしは、日本の五大名飯のひとつで、海苔をまぶしたゴ飯に、鰹節だしのスープをかけてカッ込む、オ茶漬けのようなものだ。

写真:忠七めしと薬味・土瓶は熱いスープ&忠七めし膳の小鉢類

 カッ込むときには、添えられた、ワサビ、ゆず、濱納豆、ネギを足しながら、時には新香をまじえて、味変を楽しみながら食べる郷土色ゆたかなメシである。

 忠七めしは、天皇・皇族も食べられ、黒澤明や向田邦子お気に入り、古くから名士文人墨客が通ったという。

 食いしん坊でも、私のような凡人に真の評価はむずかしいが、特別感心するようなインパクトはなかった…が、食いしん坊なら、食べなけきゃならないヒト品だと思う。

写真:手入れ行き届いた庭と離れ&TV神奈川の人気番組{新車情報}を28年間務めた親友三本和彦が二階から庭をパチリ

 ちなみに五大名飯とは、この忠七めし・深川めし・大阪かやくめし・岐阜さよりめし・島根うずめめし…くやしいのは、私が前の二品しか食べていないのに、錦糸町の親友・松下さんは全部食べたというのだ…不愉快極まりない😁。

 江戸城無血開城は、西郷隆盛と勝海舟の会談で決まったことだが、その前に駿府で西郷と山岡鉄舟が会い、根回しがあったことは知られていない。

 旗本・山岡家は、知行地がこの辺りだから、鉄舟は見回りで小川町を訪れたのだろう…鉄舟は、北辰一刀流の達人、能筆家でも知られる。

 その鉄舟が可愛がった忠七に「禅を盛りこんだ料理=剣・禅・書、三位一体の料理を造れないか、と持ちかけたのだそうだ。

 完成した料理は、剣=ワサビ・禅=海苔・書=柚、で三位一体なのだそうだ…げんざい海苔は日本橋山本の特注品、鰹節は高知の最上級品、ユズは地産良品だそうだ。

 忠七が、工夫をこらし、紆余曲折をへて、完成した料理を鉄舟は気に入り{忠七めし}と命名したのだそうだ。

 また小川町は、江戸時代からの、知られた和紙の名産地だから、能筆家の鉄舟ならではの、土地だったのかも。