世界一などと言うと、叱られるかもしれないが、性能だけではない、クラシックカーの世界で名を残し、いくつもの伝説が生まれたことなどからの、私見的評価だ。

 太平洋戦争が終わった年、わたしは国民学校(小学校)六年生だった…進駐軍がやってきて、しばらくすると、ピカピカの自家用車が走り出した。

 その中に、二人乗りの小型オープンカーが走っていて、それがMG、そしてジャガーXK-120で、共に英国製だった…十把一絡げだった私の自動車の中に、スポーツカーというものがあると知った。

写真:MG-TDと金子昭三/新聞社→自動車評論家&ジャガーXK-120/SCCJ会員の車。

 その後、沢山の車を経験して、最近スポーツカーの世界一は何だろうか?と考えた時、これだと思ったのが、メルセデスベンツ300SLだった。

 300SLの初お目見えは、1954年の、ニューヨーク自動車ショー…誰もがビックリ、鷲が羽を広げたようなガルウイングがめずらしかった。

 1954年日本は、流行のマンボを若者が踊り、パチンコが全国的ブーム…それまでは一個入ると、出てくるのは一個か二個だったのが、真ん中の窓に見える十個くらいが一気に出るようになり、射幸心をあおるようになったが、まだ景品買いなどは居なかった。

 

 300SLの心臓M198型は、斬新な燃料噴射型で215馬力。最高速度が実に267km/h…こいつは当時としては、驚くべき早さだった。

 1954年に市販された300SLの値段は、2万2500マルクだったが、1957年に追加されたオープンのロードスターは、3万2500マルクと高価で、全生産台数は1858台だった。

 ベンツには、古くから300Sのように、Sを冠したシリーズがあり、S=スポルトで、スポーツカー、スポーティーカーの意だったが、SLは意味が違った。

 S=スーパー、L=ライヒト =超軽量で、アルミボディーのプロトタイプでは、実に860kgという軽さだったが、市販時のスチールボディーでは、それでも1330kgという軽さに仕上がっていた。

 この軽さと低い車高の実現は、常識的フレームでなく、レーシングカーのような、軽量鋼管溶接フレーム構造仕上げだからこその、軽さだったのだ。

 で、軽量仕上下には成功したが、ここで問題発生…ドアが付かない。思考錯誤の結果は、横に開くのが駄目なら上に開けば、と生まれたのがガルウイングだった。

 300SLが完成すると、早速レーシングチームが結成された…カラッチオーラ+ラング+クリンク&ノイバウアー監督…ナチの時代に、世界のレース場を席巻した、世界最強チームの復活だった。

写真:300SLレーシングカーの1タイプ/独ロッソビアンコ博物館で&ミレミリアだと思われる写真。

 300SLの初戦は、過酷なミッレミリアで、フェラーリに次いで、2・4位だった…が、それ以後1955年まで、ルマン大事故による、レース引退までの連戦連勝は、今におよぶ語り草になっている。

 日本では、石原裕次郎の愛車だったことが、有名だ。