日本人が好きなスキ焼き、特に昭和の人間には大御馳走だが、明治の頃は牛鍋と呼んでいたそうだ。

 仏教の戒律で、江戸時代は食べなかった、いや食べられなかった四つ足だが、文明開化で西洋の文明が入ってくると、様子が一変した。

 明治5年、天皇陛下が牛肉を食べたら、これが大ニュースになり、日本中が安心して、食べるようになった。

 中でも、牛鍋はハイカラな食べ物で、福沢諭吉が学生を連れ、また商人・職人・芸者、だれもが牛鍋屋に通った。

 宮城=キュウジョウ=皇居に近い、日本橋や京橋あたりは西洋料理で、牛鍋は、浅草あたりから流行り始めたそうだ。

 そんな浅草に、明治13年=1880年に、ちんやが開業したが、牛鍋専門店になるのは1903年からだそうだ。

 ちなみに、東京で、明治以来の牛鍋が、関西風の呼び方、すき焼きに変わるのは、関東大震災以後だそうだ。

 浅草には、閉店した松喜、老舗米久、今半などがあるが、わたしは割り下が少し甘めの、ちんやの味が好きだった。

写真:ちんや旧店舗・

 が、大好きな、ちんやが、2021年8月突然閉店した。コロナの流行で「ちんやオ前もか」と、ガッカリした…が、2022年3月、再開したと聞き、早速出かけた。

 が、場所が花川戸に変わっていた…旧店舗は、浅草の顔とも言うべき雷門の大通りだったが、新店舗は言問通り、言問橋西で、年寄りには、地下鉄浅草駅からは、歩くのがシンドクなった。

 新ちんやはビルで、表は風情に欠けるが、玄関からは、好ましき和の様相になり、懐かしい下足札を受け取り、二階に上がった大広間で、昼飯ということになる。

写真:雷門時代の古い看板か?&懐かしい下足札。

 しゃぶしゃぶもあるが、もちろん大好きなスキ焼きをと、ランチすき焼き御膳を。

 少し肉の盛り付けが、荒っぽいが、安いランチだから、切り落としや端切れでも、仕方がない…夜になれば、素晴らしい姿の霜降りになるが、値段も倍以上ということになる。

 ちんやの肉は、飼育30ヶ月、雌の黒毛和牛を一ヶ月間熟成させたものだそうだ。

 ネギは千住ネギ、その他具材は、それぞれ何のナニというように、素姓に定評ある物ばかりのようだ。

 とにかく、大好きな甘めの割り下で食べる、すき焼きのちんやが健在というのは、嬉しいの一言だった。