{ドイツで生まれた自動車を育てのはフランスだ}とフランス人は威張る・それなら{ドイツで生まれたREを育てのは日本だ}と、日本人は威張ってよかろう。

 RE=ロータリーエンジンとはマツダ製英語で、外語ではバンケルエンジンかロータリー・ピストンエンジンと呼ぶ。

 昭和34年=1959年に、バンケル博士とNSUのコラボで、長年の夢だった往復運動がないREの実用化に成功・・・特許契約に、世界から100余社(内日本34社)が集まった中で、日本ではマツダが契約に成功した。

 が、契約に成功した世界の各社は、続々と脱落、実用量産化に成功したのは、マツダのみという結果になった。

 発売された本家NSUのRo80も不具合で消え、シトロエンは275台の試作で終わった。巨額を投じたGMもフォードも販売することはなかった。

写真:NSU-Ro80/鈴木修三栄書房社長が乗っていた。

 不成功だった会社、消えていった会社のネックは、シリンダーとピストン間の気密を保持するシールだった。

 マツダの成功は、アペックスシールと呼ぶ、特殊シールを開発して、量産化に成功し、最後には過酷なルマン24時間にも優勝という快挙を遂げた。

 が、アペックスシール完成までには、失敗を繰り返しながら10年余の才月が流れた…その成果の公表が、1963年の第十回東京モーターショーだった

 ショーではコンパクトなREが2基展示され、ガソリンより2倍も強力な出力に驚いていたら、とつぜん見慣れぬ美しいスポーツカーが会場に走りこんできた…ニコニコと笑う運転手が松田耕平社長で、美しい車はコスモスポーツだった。

 広島から走ってきた松田社長は、帰りも販売店や住友銀行などに挨拶しながら、広島に帰ったと聞く。

 が、待ちこがれるファンを裏切り、1965年第十三回東京モーターショーに展示されても、販売されなかった…が、この間に耐久テストは10万粁に及び、完成したばかりの三次(みよし)試験場でも高速耐久テストが続けられていた。

 翌66年には、試作車60台を全国販売店に配車して実用テストを続け、自信をつけた発売開始は、翌67年だった…価格175万円は、さすがに高額だった。

写真:販売店配布要のコスモスポーツ

 コスモスポーツが発売された1967年=昭和42年には、トヨタから2000GTが登場し、日本の乗用車保有台数がついに1000万台を越えた。

 当時日本は、昭和元禄と呼ばれる好景気で、カラーTVが急伸し、憧れの3Cが現実になり、街にはミニスカートが流行。ちなみに大卒初任給2万5000円、ガソリン1ℓ50円、ラーメン100円程だった。

写真:スポーツカーらしいコクピット

 諸元は、RE-A型491ccx2ローター・圧縮比9.4で110馬力・最高速度185粁・ゼロ400m加速16.3秒は当時としては驚異的高性能だった。知人の漫画家・佃公彦が買ったので度々乗る機会があった。